有閑階級は衰退しました

「ランチエ死すべき」な市民革命の末裔たる私たちなら仕方ないね。



ケインズが描いた週15時間労働の世界はいずこ 確かに世界は経済的に豊かになったが・・・ | JBpress(日本ビジネスプレス)
うーん、まぁ、そうね。もちろん100年前から社会規範における変わった部分――たとえば人種や身分の差別への公的非寛容や同性愛の寛容等の恋愛観の変化とか――がある一方で、変わらなかった部分もあると。ケインズさんの予測が外れ変わらなかったどころか、より強化されている愉快な現代世界。

 ケインズが想像した世界は、まだ15年先のことだ。我々がケインズののんびりした期待に応えるとすれば、多くのことが変わらなければならない。良い学校や近隣地域に対する十分なアクセスが必要だし、職場での激しい出世争いの文化は後退しなければならない。

 それは歓迎すべきことのように聞こえる。だが、恐らく根本的な真理は、我々の多くが価値があると感じるものに一生懸命取り組むのを楽しんだり、そうした仕事を切望したりしているということだ。ジョン・メイナード・ケインズは裕福な男だったが、それでも彼は死ぬまで働くのをやめなかった。

ケインズが描いた週15時間労働の世界はいずこ 確かに世界は経済的に豊かになったが・・・ | JBpress(日本ビジネスプレス)

面白いのは、特にアメリカなんかを筆頭に、現代社会におけるエリートな人たちってそれはまぁブラック真っ青な勢いで働いてもいるわけですよね。まぁそれに見合うだけの給料を受け取っているので、日本の事例と違って、それ自体は問題あるわけじゃないんですけど。
――むしろ本来働かなくても良くなったはずのエリートたちほど「人生とは善く働くことである」という価値を強く信奉している。『労働教』を愛する私たち。仕方ないよね。だってそれこそが人生を充実させるための最善手なのだから。「働かざる者食うべからず」といった義務論ではなく、「働く者は救われるる」という道徳論によって。現代においても尚、少なくとも多数の人びとはそう信じている。
私たちの愛した『労働教』 - maukitiの日記
神は労働に宿る - maukitiの日記
この辺は以前も書いたお話なので割愛するとして、じゃあ何故そうなったのか、と考えると色々と悩ましいお話ではあります。


かつて――それこそ20世紀前半まで――善意から社会の平等を望む左翼な人たちの非難の的だったのは、『ランチエ』のような不労所得=特に親から受け継ぐ遺産運用だけで暮らしていける有閑富裕階級だったわけですよね。
ところが現代の富裕層がそれとはまったく違うのって、偶にニュースになる長者番付なんかを見ればわかるように、彼らは別に不労所得でその座にいるわけじゃない。まさに彼らは正しくその手で稼いでいるのです。もちろん親からの遺産を受け継いで好き勝手に生きる人たちはまったくゼロではないものの、しかしそうした貴族的な不労所得は上記理由のように一般にあまり好感されず表だって出てこないし、多くの新興富裕層は自らの労働収入によってその圧倒的な富を築いているわけで。
つまりヴェブレンの言った「有閑」な階級は見せびらかしの性質こそ失わなかったものの、しかし、かつてあった富裕層像とはまるで違い現代の彼らはひたすら暇なく働き続けている。


現代の経済格差問題って、もちろんその圧倒的な賃金格差が第一にあるんでしょうけども、こうした富裕層の性質変化も理由にあるんじゃないかと思うんですよね。まるでサボらないウサギだち。いや、むしろ、足の速いウサギたちこそ努力するメリットが大きい故に、ウサギたちはわき目も振らずに労働に邁進する。ケインズ先生風に言えば、まさに彼らはただ暮らしていくためには3時間どころか1時間以下の労働でも生きていけるはずでしょう。しかしウサギである彼らはそうしない。
かつてあった格差はまさに生まれの差によって超えられない壁があった一方で、今では才能の差によって超えられない壁が築かれつつある。
格差が埋まらないどころか広がり続ける現代世界。


決してサボらないウサギたち。まさに彼らは生きていくために働くのではなく、働くために生きている故に。一方でカメたる私たちは小さくなるその背を見つめ途方にくれながら、それでも生きるために働くしかない。
みなさんはいかがお考えでしょうか?