現代社会における悲劇なストーリーを「でっち上げる」ことのインセンティブ

見目のいい『悲劇』に弱い私たち。



池明観氏が「T.K生」時代を回想…「闘いだから、事実の誇張も美化もあった。批判は喜んで受け入れる」 - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.
(ひと)池明観さん 韓国の軍政弾圧を告発した「T・K生」、日本で最後の講演:朝日新聞デジタル
うーん、まぁ、そうね。確かに歴史を見れば結構あるあるなお話ではあります。自身が信じる正義の為ならばと「劇的な」報道をすることで、世論を指定の方向へ誘導しようとする。まぁやっぱり多かれ少なかれ昔からあったお話ではあるのです。黄禍論から鬼畜米英なんかもその一端だし、上記で指摘されているような『ナイラ証言』や、あるいは『ティミショアラ虐殺』やら、『オイル塗れの海鳥』とか。
手段を選ばず悲惨な映像を売って稼ぐ、報道の怪物を生んだ社会 | 大場正明 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
それらは特にテレビの登場以来、視覚に訴え感情へと直結させる「映像の威力」として、更に強力なツールとなっている。
ある悲劇を報道し、その上で「悲しみを怒りに変えて、立てよ! 国民よ!」とやる人たち。ジオンかな?
まぁそれ自体は、是非はあるにしても、真実であればそこまで問題でないんですよ。しかしあまりにも効果的だからこそ、そこで必ず「でっち上げ」のインセンティブをも持つことになる。
その意味で『嘘』を無くすことは不可能でしょう。だってでっち上げることのリスクというだけでなくリターンも強力だからこそ。
現代において更にこうした問題が大きくなっているのは、現代人の性質変化がどうこうというよりも、こうした手法に対するリターンが現代社会ではより大きくなっているから、という身も蓋もないお話なのだと個人的には理解しています。もし誇張だろうがウソだろうがデマだろうが、一度その流れを作ってしまえば後からバレてもどうということはない、と。勝てば官軍。正義を成すためには必要な犠牲なのだ。現代日本でもいっぱいいますよね。




ともあれ、こうした報道が政治的影響力を持つ「強力さ」って、やっぱりウソでもいいからと仕組む(上記ニューズウィークの記事の言葉を借りれば)『報道の怪物』の存在を証明する一方で、逆説的にはそのまま「それを信じ心を動かされる私たち」の存在の証明でもあるんですよね。
――私たちは良く出来た悲劇の物語に騙されやすい。
もちろん騙す方が悪いのは大前提ではあります。しかしやっぱりそうした報道の怪物だけを非難しても問題解決にはなんないわけですよね。上記でも書いたように何も彼らが特別な悪人というだけでなく、そもそもそれをやるだけの価値があるからこそ、私たちが結構あっさりと騙されてしまうからこそ、「でっち上げる」ことのインセンティブが生まれるわけだから。


ここで重要なのは、単純に私たちがその「犠牲の大きさの大小」だけで踊る規模を決めているわけではない、という点にあるわけですよ。
だれもがライオンを愛してる。 - maukitiの日記
以前の日記でも散々書いてきたように、私たちは新聞の外信欄の片隅で何万人と犠牲になる事件より、心を打つニュースの方に関心を持つ。だからこそ報道の怪物の入り込む隙間が生まれるわけで。動物愛護のように素朴に私たちの正義心に訴えるようなニュースや、自分の身近な問題に類推できるような、「心を打つ(犠牲者のかわいそうな映像があれば尚いい)」物語にこそ感情移入する。



悲劇に心奪われる私たち。そしてその関心の度合いは、ただ犠牲の大きさだけでなく、まさに物語としての面白さこそが決める。なぜかって私たちはそうしたニュースが大好きだから。故に『報道の怪物』とそれを間に受ける私たちってやっぱり共生関係にあるんですよね。彼らは見目のいいニュースを提供し、私たちはそれを受け取って感情を高ぶらせる。
「報道しない自由」として一部の悲劇なニュースは選別されるだけでなく、『報道の怪物』たちの手によって悲劇は作られさえする。そこに恣意性がないはずありませんよね。


つまり、何が『悲劇』であり、何がそうでないのかは彼らと私たちの共謀によって決まる。だからこそ現代社会におけるマスコミの役割は超重要なんだけれども、そんな自覚がないような人がしばしばで気の抜けるお話ではあるんですが。



みなさんはいかがお考えでしょうか?