枯れる善意

ドイツ住民の限界まであとどれくらい?


ドイツ大異変! 急落したメルケル人気〜「盤石」と思われていた経済大国で何が起こっているのか?  | 川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」 | 現代ビジネス [講談社]
前回書いたネタでもう少し。

ドイツで多大な影響力を発揮するガウク大統領は、8月26日、わざわざベルリンの収容施設に出向き、ネオナチを糾弾し、同時に、"難民welcomeカルチャー"を自画自賛したのだが、1ヵ月後の9月27日、先の発言を大幅に修正して、皆を驚かせた。「我々の心は広いが、受け入れ能力には限りがある」と。

ドイツ大異変! 急落したメルケル人気〜「盤石」と思われていた経済大国で何が起こっているのか?  | 川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」 | 現代ビジネス [講談社]

以前フリーソフトのサポートについての日記でも少し書きましたけれども、難民受け入れの「限界」について考えるとき重要になるのは、私たちの善意には限界があるという事なのだろうなぁと。その心の広さの大小、太平洋位か瀬戸内海位かはともかくとして、絶対に無限ではないんですよ。
多少までならそれを許容することができるでしょう。しかし、まさに今の大量難民の波によって見られ始めているように、それが永遠に枯渇しないなんて絶対に言えないのです。いつか必ず、積もり積もった不満に住民たちがぶち切れる瞬間がやってくる。


もちろん例えばアリストテレス先生やルソー先生のように、社会における『善意』とは使えば使うほど鍛えられる筋肉としてみる倫理学的な見方をする人もいらっしゃいます。ただ、ケネス・アロー先生なんかは、そうした私たちが多かれ少なかれ持つ善意とは希少資源である、と仰っているんですよね。
実際それは私たち自身も多かれ少なかれ感じていることでもあるでしょう。
初期資源量の多寡に違いはあれど、個人が持つ善意由来の寛大さに寄りかかり過ぎれば必ずどこかの時点でぶち切れるし、それは概ね負荷時間とサポートする人数に正比例する。長期間、多くの人が、頼れば頼るほど当然枯渇スピードは速くなる。


翻ってドイツの難民受け入れは確かに彼らが善意の住民であり、故に各地地元住民の意識に支えられる面が大きいわけですけども、しかしこの枯渇問題こそがやっぱ臨界点となりそうだよなぁと。
善意は使えば使うほど徐々に枯渇していき、やがて自らの個人的人間関係に利用できなくなるほどに減少したとき、彼らははたと気づくことになる。
――何故我々が、我々だけが、このような負担を背負い続けなければならないのだ。
資金が足りないのなら最悪新たに支出すればいい。しかし、受け入れる側の住民たちの寛大さ・利他精神・連帯といった『善意』が枯れてしまったらもう取り返しがつかないんですよ。だってそれを、資金のように、別のどこかから持ってきて簡単に補充することは不可能なのだから。だからこそ本当にやらなければならないのは、彼らに必要以上の負担を背負わせないための「整理され秩序だった」制限的受け入れであるべきでしょう。
もし枯れてしまったら、次にやってくるのは「受け入れ」から「排除」への180度の大転換となってしまう。だから今の熱狂的受け入れと移民ヘイトって実は結構薄氷な差しかないと思うんですよね。


もしそれを踏みぬいてしまったら、


がんばれドイツ。