むしろ彼らが「短期的に」力を持った理由

あの時デマに飛びついた私たちが愛した効率性。



東日本大震災と福島第1原発事故、発生から5年 写真15枚 国際ニュース:AFPBB News
ということで「あれから5年」であります。
左派運動はなぜ力を持たなかったか? 〜 3.11以降の5年間を振り返る - モーリー・ロバートソン (1/3)
折角なので、今更ながら観測した記事で面白かった、この辺のネタから。

なぜ大衆はいともあっけなく乗せられてしまったのか?まず何よりも科学的な思考法が社会に根付いていなかったことが大きい。確率論的に考えることができたなら、水素爆発が
「実は核爆発だった」
という結論は受け付けられない。放射能のプルームが東京にまでやってくることも考えにくい。ましてや大雨が降るたびに
 「放射線が雨と一緒に落ちてきて、体に染み込む」
 ことは、とても考えにくい。

左派運動はなぜ力を持たなかったか? 〜 3.11以降の5年間を振り返る - モーリー・ロバートソン (1/3)

うーん、まぁ、そうね。個人的には、「あの後」力を持ち続けられなかった、というよりはむしろ短期的だからこそ力を持てたという見方かなぁと。



ただまぁ身も蓋もないお話をすれば、これって日々の生活に追われる有象無象な私たちにとって、少なくとも「効率的」ではあるんですよ。
――だって自分で考える必要がないから。
短期的あるいは一時的な問題についてでは特に、自らの行動を決定しなければならないという状況に直面した時私たちはどうするか? というとまぁ私たちはしばしば完璧に合理的な選択肢を時間を掛けて選ぶよりは、より手軽な方法=習慣やなんとなく大声で正しいことを言ってそうな人の言うことを聞くことにする。これはベッカー先生やスティグラー先生の、行動経済学の分野からも言われるようになったお話でもあります。
私たち日々の生活でなんとなく「習慣」に従うことは、つまり最も効率的だからである、と。


「考えずに従う方が楽である。彼らは支配されたがっているのだ」というのは愚民批判ななんかの言説としてしばしば言われるお話ではありますが、何でそうなっているかって、そりゃ私たちにとって必要な情報を集め精査した上で選択肢を「決める」プロセスの費用が高いからでしょう。
特に複雑怪奇な現代社会では益々そのハードルは上がってきている。
きちんと自らの頭で考えることが大変なことだと内心で解っているからこそ、しかしそのハードルの高さをも想定しなくてはならなくなる。


携帯電話や益々電子化していく自動車を使う時のように、私たちは天が空から落ちるような心配はしないし、放射線量を四六時中常に気にして生きていくわけにも、食事の中の「食べてはいけない」ものの危険性や、あるいはどんな道を通りどんな交通手段を使うか睡眠時間や運動量は?
こんなことを徹底していたら病んでしまうことが確実であります。
だからこそ、私たちはベストではないにしろモアベターで「良いと信じられている」「何も問題はない」という習慣に従うことで、そうした可能性をいちいち考えることを放棄している。


これは政治的選択ですら同じく言えるそうで。まぁ昨今の政治状況を見ているとよく解るお話ではありますよね。反安倍・反自民な人たちは彼らが何を言おうが反対するし、同様に反民主や反共産な人たちだって同様でしょう。
もちろん僕にしてもそれは同様で、原発線量計測の仕組みなんて全くど素人でしかない以上、「誰かの」意見を参考にするしかない。これは日本に限らず先進的社会で暮らして平均以上(例えば大卒等)の教育を受けている人たちですら、同様なんですよ。
原発問題に限らず、育児教育や労働や社会正義について、普段の態度でどのようなポジションに居るか――大雑把に言えば保守かリベラルか、という意見に基づいてまず新たな政治的意見は形成されていく。
単純に狭量さ偏見でそうしているというよりは、むしろ自身の振る舞いを「効率化」している為に。


その意味で考えると、私たち人間社会において幾ら『リテラシー』を叫ぼうと、短期的にはこうしたデマやポピュリズムに踊らされるのは(もちろん軽減することはできても)決して根治することはできないのだろうなぁと。まさに(不合理な)経済的動物である私たちは「効率的」を望む故に。
それでも中長期的にはあんまりバカなことを言い過ぎると、その後のバックラッシュがひどいことになるんですけど。
そして、御用wikiやら東京フォールアウトやらの帰結が、今の現状だとは思います。。



みなさんはいかがお考えでしょうか?