伝統ある人種差別の復活、をさせないために

PCはアメリカ社会の拘束具なのよ。


アメリカでのポリコレを巡る状況について - Togetter
うーん、まぁ、そうね。

アメリカのPC状況は軋轢最小化のための処世術」という考えと「アメリカでも地域によってPC状況は変わる」という考えの人とのやり取り。

アメリカでのポリコレを巡る状況について - Togetter

個人的には概ね前者の意見に賛成する所ではあります。ただ歴史どうこうというよりも、そりゃ身も蓋もなくアメリカ社会と言えば、建国以来400年近く続いている人種差別問題の最前線であり続けてきた故の当然の帰結かなぁと。
――まさに彼らアメリカ人たちはそうしなければ、歴史と伝統ある人種差別問題を克服できなかった、というだけ。
『ヘイト・クライム』はもちろん本邦でも非難されるお話ではありますが、しかしあちらではやっぱり過去も現在も(そしておそらく当分先の未来でも)次元が違うわけですよ。19世紀末から20世紀初頭に最高潮を迎えた黒人への人種差別問題は、最近のファーガソンの事例を見ても解るように現代も尚も生き続けている。さすがに当時あったように連日黒人が私刑にされ死体が見世物なんていうレベルは無くなりましたけど、それでもKKKのような人たちによる暴行なんて現代で「すら」珍しくない。
そうした(私たち日本人も無関係ではなかった)人種差別や、優生学ナチスよりも一歩先を行っていたことが、大戦を挟んで概ねその罪が無かったことになっているのはアメリカ社会にとって幸運だったのか不幸だったのか、今となってはちょっとよく解りませんよね。


ともあれ、こうした伝統と歴史を持つアメリカ社会だからこそ『ポリティカルコレクトネス』を叫ぶのは、社会治安の維持という意味でも、また公序良俗維持という意味でも避けられない選択肢なのだろうと個人的には思っています。あれって彼らの先進性の象徴ではなくむしろ逆なんですよ。
故に、避けられない副作用として「行き過ぎた」事例があることも事実でしょう。


この日記でもずっと書いてきているネタではありますが、黒人のオバマ大統領が誕生することで、このバックラッシュの蓋が開いてしまったのがトランプ旋風の少なくとも一端なのかなぁと。
最早我々はPCに生活の全てを縛られることに嫌気がさしているのだ! なんて。
ここで悲劇的なのは、どちらの言い分にも真実が含まれている、という点だと思うんですよね。特に都市部以外での白人層の伝統的生活がPCに侵されている(と考える)人の言い分はメリークリスマス問題や同性婚の容認問題を見ればかなり理解できるものの、ところが一方で黒人や最近ではイスラムなんかの差別問題が現代尚もあることは否定しようがないわけで。
いやぁアメリカってほんとすばらしい国ですよね。


果たしてアメリカ社会はPCを殊更に叫ばなければ、尚も伝統ある人種差別感を抑えつけておけないのか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?