アイヒマンセオリーに誠実なマスコミ

集団の死を統計なんかにしてはならない。


スピン経済の歩き方:災害取材を行うマスコミが、現地で非常識な行動をとる理由 (1/5) - ITmedia ビジネスオンライン
うーん、まぁ、そうね。

 つまり、彼らが割り込みという非常識な行動をとった背景には、「被災者の論理」より「マスコミの論理」を優先させてしまうからなのだ。この論理とは一言で言えば、とにかく「分かりやすく派手な被害」を伝えることこそが正義だという考え方である。

スピン経済の歩き方:災害取材を行うマスコミが、現地で非常識な行動をとる理由 (1/5) - ITmedia ビジネスオンライン

「分かりやすく派手な被害」ですって。
まぁでも一面の真理ではあるんですよね。ニクソンが言ったように「人は愛ではなく恐怖で動く」のは否定できないわけだし。なので、人びとにどれだけ影響力を与えるか、という観点で彼らの成功を考えるとそりゃ最適解は「とりあえず恐怖推し」というのはやっぱり正解でもあるのでしょう。


さてその上で考えると彼らが、しばしば、現場で暴走するちょっと違った理由が想定できるんですよね。何故なら悲劇の演出手法においては、アイヒマンさんが言っていた「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉のまったく正反対を行かねばならないから。つまり、恐怖を強調する上で重要なのは顔の見えない『集団の悲劇』ではなく、誰かの『一人の人間の悲劇』である。
重要なのは、視聴者にその「予感」を感じさせること。故にその想像力を喚起するだけの悲劇=絵こそが欲しいものとなる。それはただの数字じゃ難しいよね。


かくして彼らは被害者たちの生々しい「悲しみの声」を求める。この絶望をただの数字で終わらせてはならない、と。
それがただの打算か、それとも本気の善意なのかは僕には解りませんけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?