セックスはだれのもの?

社会として『正しい』セックスが何かを求めるべきなのか?


【オーランド乱射】銃撃犯の妻を訴追の可能性と - BBCニュース
【オーランド乱射】容疑者はクラブ常連 「男をナンパしようと」 - BBCニュース
ということでフロリダの銃撃事件は、犯人の中の人の家庭や性的志向色々闇が深い話でもあるそうで。

フロリダ州オーランドのゲイ・ナイトクラブ「パルス」を襲撃し49人を殺害したオマール・マティーン容疑者は、その「パルス」の常連客だったという情報が相次いでいる。
同じく常連客のジム・バン・ホーンさんは、事件後に写真を見て驚いたと話す。
「みんな彼の名前を知ってました。オマールだって」と言うバン・ホーンさんは、「彼は同性愛者で、男をナンパしようとしていた」と言明した。

【オーランド乱射】容疑者はクラブ常連 「男をナンパしようと」 - BBCニュース

いやぁ難しいお話ですよね。おわり。でもそれだけじゃ寂しいし、何か適当なことを書けば、まるじゃなくてもさんかく位は貰えるかもしれない(当日記のメインテーマ)。


以下、「性的志向の正義をどこに置くのか?」の適当なお話。






さて、報道が正しければ、犯人は自分の性的志向とその教義のジレンマに(文字通り「死ぬほど」)悩んでいたとされていますが、まぁこれって現代の個人主義的価値観の広まった(広まりつつある)と信じる人たちからするとちょっと解りにくいお話ではありますよね。
性的志向といったプライベートなことについて、もちろん現代社会でも尚ある宗教や伝統的価値観から要請される「正しい」性道徳は影に日向に存在する以上そこで深刻に悩むことはあるように、さすがに銃撃するほどではないものの、暗黙の圧力もあったりする。


それでも「過去」社会において宗教や伝統などが、そうした規範をほとんどどこでも生み出してきたのにはやっぱり理由があるわけですよね。セックスは私たち人間――ひいては人生にとって重要な事柄であり、同時にまた性病等危険な要因を持つ行動でもあった。
今回のようにイスラムのそれ(同性愛は死ぬべきである)が話題になりますけども、それを言ったらキリスト教、特にカトリックだって似たようなモノでしょう。カトリックについてもっと言えば、今でも離婚やコンドーム使う等避妊全般だってよろしくないとされている。
何故キリスト教イスラムと違ってそこまで問題にならないのかというと、そりゃもうキリスト教徒の皆さんはぶっちゃけそんなの無視しているという身も蓋もない事実があるわけで。一般に信仰心が強いとされる社会ですら「避妊ヨクナイ」とか言われてもそんなこと知ったこっちゃないわと相手にしないからこそ、出生率はダダ下がりなのだし。
レスプブリカ・クリスティアーナは衰退しました - maukitiの日記
今でもイスラム教がそうであるように、かつて性はもちろん生活全般に普遍とする規範を求めてきたキリスト教は、(経済及び技術進歩の事情から)人々が宗教と生活を切り離すことを憶えたことで、力を失った。
最早彼らにとって「性」とは社会規範によって決まるモノではなくて、「食事」なんかと同様に、自分自身の選択の範疇にしかないんですよね。あるいは、今でも重要だからこそ、その性的志向は個人の自由に任せるべきだとリベラルな世界に生きる人たちは考えているわけで。


しかし、重要だからこそ、現代でも尚も性道徳とは社会によって何が『正しい』のか定められているべきモノだと考える人たちも居る。今回の事件のようにそれは保守的なイスラムの人たちなんかが筆頭ではありますが、濃淡の差はあれど宗教以外でも同じように考える人たちも(一般に保守的な人として)少なくない。
例えば「食事」について、宗教に限らない特定の規範を持ち込む人はそこそこ目にしますよね。それと「性」だって構図としては同じ所にあるんですよ。私たちが日々の生活において、何が『正しい』規範であるか社会が規定すべきだと考える人たち。
妊娠中の高3女子生徒に体育の授業を要求 京都の高校、休学勧める(1/2ページ) - 産経WEST
最近の本邦で言えば、上記ニュースもその関連にあるんじゃないかと。うらやまけしからんという冗談さて置くとしても、しかし女生徒の側を批判する側の背景にあるのはやはりある程度の性規範が存在すべきであるという風に考える人たちであるのだろうし。
是非はともかくとしても、それが現代でも人間社会(家庭)の根幹の一つである以上、そうした考え方が生まれること自体をまるっと否定することはやっぱり難しいかなぁと個人的には思います。


――であるならば、やはり私たちは個人の価値観ではなく、社会として『正しい』セックスが何かを求めるべきなのか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?