「俺のしゃかいがくが目に入らぬか!」な人たち

お手軽マウントができる危険な代物。


社会学をバカにするな - Togetter
わーなにをいっているかよくわからなーい。

特定のイデオロギーと紐付いてる、体系だった方法論がない、反証可能性がない…
とかく批判される社会学ではあるが、
それは社会学者の資質に因ることが多いのではないか?
バカにするなら社会学ではなく社会学者個人を!…との提言に始まる議論

社会学をバカにするな - Togetter

しゃかいがくとかこうどすぎて、ぼくにはちょっとよくわからないので、いか、てきとうなおはなし。




ともあれ、社会学がアレな人たちの(簡易)便利ツールになっている=故にバカにされている、という構図はまぁ少なくない人に理解されるお話ないかなぁと。その意味で、軍事や核物理学なんかと同様に、人間にとってある種「危険性のある」学問なのだろうとは思います。多かれ少なかれ知識なんてなんでもそうだろうと言ってしまっては身も蓋もありませんけど。


そもそも、デュルケーム先生が言っていたように(科学としての)社会学というのは「人びとは、それぞれ個人の意識を超えた何か=社会的な力によって、実は動いている」という前提があるわけですよ。彼の『自殺論』もつまるところ自殺した人たちの理由について、自身の遺書であれ第三者の証言であれ必ずしも正確ではない、というお話から始まっているわけで。
社会学とは、善悪の識別ではなく、むしろ人々が選択し行動した中に孕んでいる深い意味や、それがどのような影響をもたらすかを明らかにすることである。


こうした事が社会学の役割だと考えると、必然その中には真面目な社会学者=良貨だけでなく、そもそも客観的分析を省く悪貨な人たち=「現代は(自身の信仰やイデオロギーに沿った)○○な社会となっているぅ!」なアレな人たちが集まってきがちなのも仕方ないお話ではありますよね。
だって社会学を学んだ自分がそう言っているのだから間違いない、と簡単に印籠を振りかざすことができるから。自身の推したいイデオロギーに正当性をくれる社会学
ということで、まぁ『社会学』って建前を利用しただけの(きちんとした社会科学としての試論分析推論を放棄した)結論だけで、お手軽に「社会を遍く観察ができるアテクシ」なポジションを採れちゃうのがそういう悪貨を集めてしまうのでしょう。
でもまったく逆に真面目にやり過ぎても心理歴史学ハリ・セルダンみたいになっちゃいそうですけど。


そんな愉快に社会学を利用する人たちを見ると、まさに社会学繋がりで、ウェーバー先生の『職業としての学問』のお言葉を思い出します。

(科学者が)ある立場に執着するとき、あなたはその神に仕え、ほかの神に背くことになるのです。

社会学と名乗る彼らは一体何の神に仕え、そしてどんな神に背いているのか。もういっそ社会学者を社会学として研究すればいいんじゃないかな。


がんばれ社会学