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「光が強ければ影もまた濃い」的な光景

もういっそ核兵器なんて「ぜんぜん大したことないからー」とか言っておけば良かったかもしれないね。だめだね。




核兵器は正当な自衛手段、核抑止力放棄するつもりない=北朝鮮外相| ロイター
「核保有国」に近づきつつある北朝鮮の思惑 | 韓国・北朝鮮 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
ということで北朝鮮さんちの父子二代に渡る不断の努力がついに結実しつつあるそうで。

しかし、北朝鮮の実験には戦略的かつ軍事的論理がある。短期的なプロパガンダや体制の不安定さを映す行動と受け止めるのは早計だ。実際、北朝鮮の行動は一貫している。一連の実験は、現体制を維持すること、そして、韓国とその同盟国の安全保障を脅かすことを目的に、(目的地に)到達可能な核兵器保有するという長期的計画に基づいている。

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昔からよく指摘されているお話ではありますが、まぁ結局そういうことではありますよね。核兵器さえ構えておけば、それが自殺行為である故にお互いに均衡=平和状態を生み出せる。『恐怖の均衡』というウォルステッター先生が理論化した核戦略について。自己成就予言的展開だという声もありますけど、冷戦を終えた現代においても尚ある種の合理性があるとして生き続けている、クソみたいな世界観について。


大分前にも少し日記ネタにした気がしますけど、そんなウォルステッター先生が言った『恐怖の均衡』において重要なのは「報復能力」であるわけで。ただお互いに核を持っているだけでは安全ではなく、むしろそうした(アイゼンハワー政権の)姿勢を批判する為にこそ生まれた核抑止力という考え方。
いざという時に相手にきちんと撃てるように準備しておかねばならない。そしてその核攻撃が相手に迎撃されないようにしなければならない。*1
北朝鮮はミサイル開発をそうした視点に置いて、まぁ正しく適切に努力してきたと言っていいのでしょう。これまで長年私たち外部の人びとは、いつか北朝鮮は自滅あるいは屈服するだろうと楽観的に考えてきたものの、そんな都合の良い(私たちがそうあって欲しいと願った)話はなかった、というだけ。



ただまぁこれって同時にまた私たち日本人の誠実な「反核兵器」という啓蒙のおかげ、という側面も結構……いやほんのちょっとくらいはあるのだと思うんですよね。それ自体はまったく批判されるような性質のものではありませんが、核兵器がヒドイものだと訴えれば訴えるほど、その悲劇性及び残虐さは無限大に強調されていくことになる。
――ということはつまり、同時に、万が一「次に使ったとき」の悲惨さも無限大に強調されることになる。
光を強く当てれば当てるほど、そこに落ちる影もまた強調されることになる。これはヒロシマナガサキ後に決定的に変わってしまった人類世界にとって、核兵器の本質として見事にマッチしているわけですよ。核兵器とは抑止力であり、その『抑止力』とはつまるところ「例え我々が戦争に負けるとしても、敵の都市に核兵器が落とされることになるだろう(そこまでの覚悟があるのか?)」という一点に尽きるのだから。
少なくとも現代日本、そして韓国の世論において「多少核兵器を食らってもいいから、北朝鮮を原始時代に戻すべきだ」という人は(一部の頭のおかしい人たちを除けば)まず居ないという点で、その抑止力は正しく発揮されていると言っていい。
核兵器を使ってはいけない」と言うことは、実際に核が存在する現実において「核兵器を使うような状況に陥ってはいけない」という事とニアイコールでもあるのだし。


お互いに裸で銃を突きつけあっているときこそ、人間は平和関係を生み出せる。
まぁなんというか、どこぞのライフル協会みたいな世界観ではありますが、でも結局この20年を掛けても誰も北朝鮮を「武器を捨てよう」と説得できなかった――同時にそれは核大国であるアメリカやロシアや中国を説得できなかったという意味でもある――から少なくとも今は現状を追認する以外にないよね。
我々は、核兵器を突きつけあっている時にこそ、戦争(侵略)を無くせるのだ。少なくとも北朝鮮はそう信じている。




『恐怖の均衡』の時代はもうちょっとだけ続くんじゃよ。
がんばれにんげん。

*1:日本の核武装問題でハードルとなるのはむしろこちらの方なんですよね。ただ持つだけじゃ意味がない。