彼ら移民の態度の問題ではない、我々の忍耐の問題なのだ

しかし、だからこそ、これは救いようのない悲劇なのだ。



ドイツの難民受け入れ、生活摩擦の実態を見る WEDGE Infinity(ウェッジ)
超格差社会フランス、最貧困層の移民と話してわかったこと - マダム・リリー
うーん、まぁ、そうね。

 ベルリンの一等地にあったアパートは、どうしてこうなったのであろうか?まず「生活習慣」。「ローマではローマ人のする様に(郷に入れば郷に従え)」という西洋の格言があるように、よそから来た場合、その地域に溶け込むために、確実に必要なことと言える。宗教的、他の理由で譲れないところもあると思うが、これは一番大きな要因だと思う。

 そのためには「尋ねる」ことが重要だ。分からないことを周囲に尋ねるのだ。人間、質問されると不思議なモノで、優しさが産まれる。相互理解が進みサポートもしてくれるようになることも多い。今回は決定的にコミュニケーションが足らないように思った。都会の場合、隣には無関心が当たり前と言われる現代、なかなか踏み出せない一歩かもしれない。

 ドイツ政府はドイツ語教室も開いているのだが、教員不足、場所不足など、いろいろな問題があるようだ。

ドイツの難民受け入れ、生活摩擦の実態を見る WEDGE Infinity(ウェッジ)

少なくとも「短期的には」こうなることは避けられないですよね。もちろん上記にあるように私たちが愛する魔法の言葉「郷に入っては郷に従え」というモノはあるものの、それが意味するところは、長期的にそこで暮らしていくのならばそうする方が近隣住人との無用の摩擦が減って暮らしやすくなる、という前提があるわけですよ。
――だからその反対には「旅の恥は掻き捨て」というモノがあってしまう。
皮肉な話ではありますが、まさに彼らは援助としてそこの住居を受け取っているからこそ、郷に入っても郷に従う必要のない、旅の恥を掻き捨てるインセンティブを持つことになる。だって終の住み家じゃないから仕方ないよね。所詮それは無料で与えられたものであり、現地の郷に従うことへの必然性は少ない。例えば住民の反対が多ければ追い出されるとかがあれば別かもしれないけど、まぁそんなの無理だし。



ということはつまり中長期的には違うのか、というとまぁ概ね「理論的には」その通りなんですよね。エマニュエル・トッド先生の『移民の運命』などで強く言われているように、いつしか移民たちは必ず現地社会と同化する。これまでも何度か日記ネタにしてきた社会学風に言えば、私たちが社会を作るのと同じくらい、私たちも社会から作られているのだから。子供たちは家庭よりもその育った社会から受ける影響の方がずっと大きく(必然的に親世代より高い教育を受ける可能性が高い)、そして若者たちは混合結婚をしていく。

よくドラマなどで親子関係の不和の象徴として、教育熱心だったりする親が子供に対して「友達は選びなさい」と言うシーンがありますけども、それはまぁ子を持つ親としては不思議ではない忠告ではあるんですよね。だって友達を選ぶと言うことは「世界観を決定する」「自分にとっての神と悪魔は何なのか」を決定する、という意味と限りなく同義でもあるのだから。だから幼少期の友達というのは、その子にとってその後の人生観そのものを決める重要な最初の一歩なのです。つまりそれこそが子供が親(の世界観)から自立し独立する為の第一歩であり、広義の『古き神』の陳腐化でもある。子は自らの手で新たな神を手に入れる。幼年期のおわり。

「友達は選びなさい」の先にあるもの - maukitiの日記

なので、やって来た移民たちと受け入れ側の現地住民、の間で適切な相互交流さえあれば「長期的には」必ず彼らは同化するのです。少なくともその現地社会の中で育つ移民たちの第二世代以降がきちんと成長する頃には。もちろんそれは、多くの場合で元々あった社会とは少し違った形態にはなるでしょうけど、まぁ社会や文化というのは必然的な時代変遷によって変化するのだしそれくらいセーフだよね。
成功例として言われる移民街=リトルイタリアやチャイナタウンってつまりそういうことなわけで。あくまで一時的な入り口でしかない。
ところがぎっちょん、そこで適切な交流がないまま、あるいは致命的な教育格差の放置などによって受け入れた社会と関わる手段が失われると移民たちは孤立化し、元々の移民社会に引き篭もるしかなくなり、やがてそこが新たにやってくる移民たちが影響を受ける現地社会となってしまう。まぁそうなると、後はスラム一直線であります。
――あれ、これって今のフランスとかベルギーとかで起きてる光景?
でもそれは「多文化主義バンザイ!」とか言いながら実質は移民社会と自分たちの社会の関わりを絶ってきたツケなので、概ね自業自得でしょう。強権的で短期的な「移民同化」を拒否した代替として「多文化社会」を高らかに謳っていた彼らは、即時の融合が果たせない故に生まれる短期的なデメリット(第一世代の移民社会との必然的な軋轢)を受容することができない為にそれを事実上見て見ぬフリな無視をする=同化不要な多文化主義賛美へと舵を切った結果、中長期的には起こっていたはずの第二世代以降の移民と現地社会の緩やかな同化にも失敗した。


かくして、ヨーロッパで巻き起こっている「移民受け入れ」に関する数々の失敗は、概ねヨーロッパ側の受け入れた社会の方が悪いのだ。Q.E.D




ヨーロッパでは上記「短期的デメリット」を許容できない為に、移民問題の長期的解決に失敗した。
何故なら忍耐が無かったから。
しかし、そんな風に短期的デメリットを許容できなかった彼らを責めることができるかというと、まぁそんなことはありませんよね。そもそも私たちにだって我慢できる程度には個人差があるのだし、未来のために耐え忍べと言われてハイそうですかなんて簡単に受け入れられるわけがない。経済学的に言っても「私たちは長期的には死んでいるのだから」後のことなんてどうでもいい、というのはまぁ確かに合理的ですらあるのです。
千葉)白井の保育園計画、業者が断念 住民が反対運動:朝日新聞デジタル
現代日本で言うと家の近くに保育園を拒否するのも、近くに難民を受け入れを嫌うのも、拒否する構造としては大して違いはないのだと思います。どちらも未来享受するだろう多少のメリットの為に、今負担する支出やデメリットをわざわざ「自分が」背負いたくないだけ。既に自分が持っている価値を失いたくないだけ。現代ヨーロッパでドイツ主導の難民受け入れが批判されているのだって、結局そういう理由になるのだし。
少なくとも僕には、拒否する彼らには忍耐が足りない、と単純に断じることができるほどはこの正義を確信することができない。



移民そのものが問題なのではなく、受け入れる側の努力と忍耐力が足りなかった。
しかし、だからといって、そんな彼らの努力と忍耐力の「無さ」を私たちは責めることができるだろうか? 


みなさんはいかがお考えでしょうか?