誰もが犠牲者でいたがるすばらしきこの世界

先ず殴るより、先ずは殴られたいマジで。


「少女像」問題、米が日韓関係改善促す 米韓外相会談:朝日新聞デジタル
そういえば最近また日韓合意が面白おかしいことになっているそうで。
毎度のことながらこの辺の話題は、やる気スイッチ君のはどこにあるんだろう〜のもう押され過ぎて壊れかけたBボタン並の危険ネタではあるのでタクシー運転手の野球ネタの如くあるいはビアンカvsフローラネタの如く、出来る限り避けて生きていくのが適切ではあるんですが、折角の個人ブログだし記念カキコ。
過去の歴史の被害者である私たちが犠牲者なのか、それとも現在の合意を無視されようとしている私たちこそが犠牲者なのか。



以下、それとはあまり関係ないお話。





良いか悪いかはともかくとして、特に現代における国際社会という自然状態で重要な戦略目標の一つとして、如何にして犠牲者であるかを演出するという点があるんですよね。アメリカやロシアや中国やイスラエルのような唯我独尊な国家ですら一応は取り繕う大義名分。
「我々は犠牲者である(故に正義は我々にある)」
特にテロ戦争や非対称戦争が言われるようになった『9・11』からは、元々は強者と弱者という文脈で語られがちだった構図が――なまじテロ攻撃で派手な成果が上がることが証明されたおかげもあって――「加害者」か「犠牲者」という形で一層語られるようになった。敵方こそがテロリストであるという烙印を押すために。
これは多分に広告戦略(こちらは特にはユーゴスラビア以降)の発展と進歩が関わるお話でもありますが、速報性の高いニュースの登場によって象徴的・表面的なイメージを私たち大衆に認識させ感情を動かすようになったことの帰結なんですよね。現代世界において(仮に演出の成果であろうが)犠牲者ポジションであることの政治的利得はずっと大きくなっている。挙句には犠牲者になることが『陰謀』とすら言われるようなる始末。
犠牲者であれば倫理面で優位に立てる。倫理面で優位に立てるという事は、国内外で自身の正当性をアピールできる。


昔から個人の非暴力あるいは無抵抗主義的な善性を表す言葉として「殴るより殴られた方がいい」「殺すより殺された方がいい」なんていうとてもうつくしい言葉があったりしましたけど、現代においては犠牲者のポジションを得ることは政治的な利得がとても大きく、むしろ合理的な行動ともなっている。右の頬を殴られたら、更に左も殴らせればより一層犠牲者としてのポジションは盤石となるのだ。聖書は良いこと言ってるね。


かくしてテロや事故が起きると、まるで神の恵みのようにそれを喜び、従来の政治的資源に結びつけようとする人たちが生まれることになる。
しばしば見られる死ぬほど醜い光景ではありますが、でも犠牲者であることが「美味しい」のだから仕方ないよね。


がんばれ人間。