不信感と差別感のあいだ

隣人を信用するのが自然か、それとも信頼できないのが自然なのか。


http://news.infoseek.co.jp/article/20170124jcast20172288759/
うーん、まぁ、そうね。同意も否定もしませんけども、そういう人たちが「居る」というのは理解できなくはないかなぁと。それが自然な感情なのか、それとも唾棄すべき悪弊なのかはともかくとして、こういう人って普通にいますよね。
実際、欧米社会で揺れまくっている『反移民』騒動もこれが同根の一つにあるようなものでしょう。単純な人種主義で無根拠な優越感から来る差別だけでなく、ただただ自分の周辺社会に信用できない隣人が増えるからと移民を拒否する人たちのことを『差別』と呼ぶのならば、まぁこれもそうなんじゃないかな。

熊谷市長が例に挙げた「男性保育士による女児の着替え」をめぐり、ツイッターでは、一部の女性ユーザーから、

「男性保育士さんに警戒するのは仕方がないのではと思います」
「性犯罪の加害者の九割が男性って事を考えたら、充分考慮する理由になると思うんだけど」
「女児の親御さんが同性更衣介添えを望むのは当然の事かと思います」
といった反発の声が出ることになった。

こうした書き込みを受け、熊谷市長は22日のツイッターで、

「娘を男性保育士に着替えさせたくないと言う人は、同様に息子を女性保育士に着替えさせるべきではないわけですが、そんな人は見たことがありません。社会が考慮するに足る理由無しに性による区別をすることは差別です」

http://news.infoseek.co.jp/article/20170124jcast20172288759/

根本的な構図としては、こうした「女児の着替えさせないで!」という人たちが、素性の知らない人物(男性)を信用しきれていない、という原因があるわけですよね。その反対にあるのは、素性を知らなくても「人物(女性)」であればほとんど無条件に信用できるという構図でもある。
彼も男性なんかじゃなくて、女性になれば、この愉快な保護者たちから信用されていたのにね。
つまり、オトコで生まれたのがわるいんだ。
このお話でひたすら墓穴を掘っているのは、この部分でしょう。もし仮に女性相手でも同様に愛する我が子を預けるだけの「信用ができない」のであれば、それは差別と呼ぶべきではなかったかもしれない。しかしこうした主張をしている人は、属性の一方では他人を信用できるのに、同じ属性内のもう一方では信用できないと主張してしまう。

  • 日本人なら信用できるけど、外国人は信用できない。
  • 同じ宗教を信じているなら信用できるけど、異宗教を実践している人は信用できない。

まぁ内心で思うのはともかくとして、現在のPC的に口にしちゃったらアウトだよね。もちろんそんなPCなんてクソ食らえという人たちもいるので、やっぱり特別にユニークな主張というわけでもない。


でもこうした構図って、個人的に、私たち人間社会において『差別』の問題が克服できないことの真髄の一つじゃないかと思ったりします。まさに見知らぬ他者を信頼できない故の「不安」から来る拒否反応を、私たちは一体どうすれば緩和できるのだろうか?



多分次回に続く。