専門家の努力の有無というよりは、専門家のフリをする人たちによる害悪じゃないかな

騙す奴が悪いのか、騙された奴が悪いのか、騙すのを止められなかった奴が悪いのか。



【東日本大震災】なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと
本題である正しい意味での『反知性主義』なお話は、現状の見解としては(数年後同じ考えを持っているとは限らない)以前の日記「市販カレーに隠し味入れる」派から「ワクチン恐怖症」派までを繋ぐもの - maukitiの日記で概ね書ききったのでそちらをご笑覧いただくとして、以下別の論点として色々と考えてしまうお話。誠実な専門家たちの努力、コミュニケーションが足りないように見える原因について。

「科学的には正しいけど、結論を押しつけられて終わる。それなら『優しくて、温かいコミュニケーション』がとれるニセ科学、デマのほうが自分にマッチしているという人は残り続けます」
誤った言説を批判し、事実を示し続けることは必要。しかし、そこから先にも考えるべき問題は残っている。
「人の判断基準って、言っている内容以前の問題で、どうしても論理よりも感情が優先する。それは仕方ないんです。だから、コミュニケーションというフレームが必要になるんです」

【東日本大震災】なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと

個人的に、こうした問題がひたすら救えず地獄絵図となりがちなのは、私たちの「能力の限界」あるいは「コミュニケーションの欠如」ではなくて、むしろそれを「利用する人たち」の想像以上の多さ(声の大きさ)だとも思うんですよね。


上記コラムでも言われているように、誠実な専門家たちの(住民と寄り添おうとする)努力が足りないのも確かにそうなんでしょう。しかし、そんな専門家たちの努力は、意図的な『欺瞞』あるいは『善意』及び『錯誤』によって弱体化されていた、というのは決して忘れてはいけない教訓じゃないのかと。
放射能恐怖症の人たちが犯した最大の罪 - maukitiの日記
数年前にも同時期にそんな構図について書きましたけど、誠実な専門家たちがほんとうに戦わなければいけないのは、無知な住人たちだけではない。だからこそ現代社会におけるこうした構図は地獄絵図となる。大岡裁きの如く、啓蒙し救わんとする住民たちの腕を逆側から引っ張ろうとする人たちの存在によって。
悲しいかな経済的合理性を求める私たちは「安売り」に弱く、それは『恐怖の大安売り』でも同様に飛びついてしまう。かくしてレッドオーシャンで戦う人びとは、必然の結果として先鋭化していく。差別化戦略によってより多くの視聴者を掴もうとする。より解りやすく、より煽情的に、より恐ろしいニュースを。
「視聴者が求めているのだから、おれたちはわるくない」なんて言いながら。
自身の都合――大抵は経済的目的か政治的目的によって――に沿った、立派な肩書をちらつかせたり専門家のフリをすることで、より扇動的な恐怖のニュースを売ろうとする人たち。
『恐怖を売る』人たちは、なにも無知からそうしているんじゃない。彼らは達成したいと思っている明確な目的があり、その為に誠実な専門家に負けず劣らず努力をしている。明らかなデマを、綺麗な化粧で真実に見せようと必死に。昨今では特にフェイクニュースポストトゥルースなんてのが流行ってますけども、そんなニュースが意味しているのは、それを売ろうとする人たちの存在の多さでもある。

原発事故から6年目の現実だ。西澤さんはこう話す。
「説明したいだけ説明して、科学的結論に納得してもらう。これをリスクコミュニケーションだと思っている人もいる。これでは、単に結論を受け入れろと言っているだけです」
「普通の生活する人たちの『不安だ』という言葉の裏に何が隠れているか。現場で起きていたことから、学ばないといけないのです」

【東日本大震災】なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと

「言葉の裏に何が隠れているか?」に対する回答の一つ。ぶっちゃけ、どれだけコミュニケーションを図ろうとしても、それとは逆側のベクトルを働かせようとする人たちの存在を理解しない限り、「無知なデマ」と片づけている限り、どれだけやってもその努力は相殺されてしまうんじゃないかと個人的には思ってます。




みなさんはいかがお考えでしょうか?