「不安忌避文化」の果てにあるもの

ポスト『9・11』社会に生きるアメリカ、ポスト『3・11』社会に生きる私たち日本の今。



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そういえば築地豊洲移転の問題はまだまだ燃えているそうで。いやぁ関係各位のみなさんたいへんですよね。


ともあれ、でもまぁこうした「不安」を根にした喜劇のような騒動は、ある意味で現代日本社会の典型事例でもあると思うんですよね。湧き出る不安を訴える人たちと、それをどうにか抑え込もうとする人たちの過渡期的な現象として。
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こちらも尚も燃える原発問題と同様で、2017年に生きる現代日本人の原風景ともなった『3・11』後から徐々に立ち直りつつありながら、根強い不安感は尚も健在であるからこそそのジレンマに悩むことになる。


「不安」に敏感になってしまった私たち。
もちろんそれ自体は殊更に批判されるようなお話ではないでしょう。ある程度そうした思いを――最近流行の言葉で言えば『忖度』することは、理に適っているとすら言っていい。しかし、それが行き過ぎると薬が毒になるように、あまり良い効果を生まないわけですよね。その程度問題こそが重要ではあると誰だってわかってはいるものの、しかし劇的なカタストロフを「体験」し記憶が生々しく残っているとその程度問題を解決=合意することは非常に難しくなる。
かくしてやってくるのは、潔癖症のような「不安忌避文化」であり、その文化が更に生むモノと言えば「カネを注ぎ込む文化」でもあります。
昔から言われているお話でもありますが、資本主義社会に生きる私たちが大小様々な不安を解決しようとすれば、必要コストほとんどイコールでカネを使う以外にないわけですよ。それはミクロな個人から、マクロな政府までまったく変わらない大原則でもあります。そしてそのコスト比は経済学の基礎にあるように、徐々に非効率へと逓減していく。平時にはそれまでは最も「経済的に」合理性のある点で実現していたそれが、逃れられない感情によって更なる安全を求めることで生まれる更なる支出拡大。
同時にそれは為政者・責任者の責任回避という意味でも、理に適っているのがこの構図の良く出来ている所でもあります。もし、再び同じことが起きた場合に、前回以上にその不安を看過した責任を問われることになるのは間違いないから。
私たちが不安忌避文化により強く染まるということは、社会全体としてより「カネを払う」ことへと結びつくのは、必然の結果でもあるんですよね。


ちなみに、こうした構図を経験しているのはもちろん日本だけではなくて、むしろ一足先に、更に規模を大きくした形で経験しているのが現代アメリカでもあります。
――あの『9・11』以後、「テロの不安」に完全に支配されたアメリカ。
彼らが辿った道は、まぁ私たちのそれよりもずっと顕著な形で進行した。その流れは子ブッシュ政権だけでなく、オバマ政権になってもまったく変わらず、トランプ政権となった今ですら続いているトレンドでもあります。『トップシークレット・アメリカ』の中で著者はそうした流れを次の様に説明しています。

実際、その不安はオバマ政権になっても続き、9・11後の10年間の大きな部分をずっと占めていた。そして「不安の文化」はそれを押さえ込むために「カネを注ぎ込む文化」を生んだ。そしてそれが「アメリカ政府は、たとえ20人のテロ組織であろうが、一人の頭の狂った人間であろうが、何かが起きる前にいかなるテロ計画もすべて潰す」という信条になった。その考えがまたさらなる支出を呼び、その支出がまた「いかなる兆候も見逃さない」という信条を呼んだ。*1

テロへの不安がカネを注ぎ込む文化へ。8年のオバマさんの任期を通じての評価の一つとしてある「秘密作戦」「機密機関」の拡大はこうした名の下に進んだわけで。ついでにもちろん万が一の「大規模テロ再び」際に言われるだろう政府の責任回避としても。
その意味で言うと、現在進行形で進んでいるトランプさんの「過激な」テロ対策もこうした流れにありながら、しかし時間の経過と共にそれに反対するカウンターな流れも生まれつつあり、だからこそ両者はポジションによって激しく争っている。単純にリベラルな信条の存在どうこうだけでなく、こうした(日本と似た)流れがあったりするのかもしれない。実際、強硬な移民排除政策も、テロ直後のまだ時間の浅いタイミングであれば通っていてもおかしくはないでしょうし。


『9・11』がアメリカを変えたように、『3・11』が私たち日本を変えた。ただそれはなにもテロそのもの、あるいは大震災そのものが変えたのではなくて、それを受けての「不安」こそが社会を真に変えていくということだろうなぁとしみじみ思ったりします。それが良いことなのか悪いことなのか別として。


あの日の続きに生きているからこそ、不安によって社会を変えてしまう私たち。逆説的にテロリズムの有効性を証明しているようで、皮肉なお話ですよね。だからこそ「正しく恐れ」なければいけないんですが、でもそんなこと口で言うのは簡単だよね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:P74