われわれは賢い――とはとてもいえないので

(『規制』は存在する)



FGOの爆死報告を消費者庁に提供する方法 - Togetter
うーん、まぁ、そうね。個人的にはガチャゲー否定派でもあるし自分が本気回すことはおそらく今後もないものの、それでも、多くの爆死報告を見る限り『規制』はあって然るべきかなぁとは思います。
何故って私たち人間は「そこまで」賢くないから。
結局、この辺の議論は単にガチャの是非というよりは、むしろよくある政治哲学論争にもある「小さな政府」「大きな政府」のような国家の役割について議論になっていくのかなぁと。「何が幸福かは政府が決めるのではなく、自分が決めるのだ」なんて。

  • 国家パターナリズムの範囲と強弱をどう決めればいいのか?
  • あるいは社会(政府)はどこまで個人の愚行権を認めるか?


ここでめんどくさいお話になっているのは、ネタになっているFGOのガチャの魅力が単純に性能云々という所に留まっていない所かなぁと。こうしたガチャ当たりの目玉が『性能』であれば端から見ると解りやすいんですよね。だって数字でその価値が明確になっているわけだから。
――ところがそうした数字上の性能にとどまらない魅力のある『キャラ』となるとそうはいかなくなる。
客観的に見てそこまで『価値』がある――とか大雑把に言うと荒れそうですけど――かはそのキャラに惚れた本人たちにしか解らない次元になってしまう。そうなると「ならば自己責任」というお話が出てくるのもやむなしなんだと思うんですよね。逆にこれが解りやすい数字でスーパー強いキャラとされていたら、もう少しその自己責任論は下火になるんじゃないかと。
FGOがしばしばネタにされるのは、元々の確率の渋さだけでなく、こうした数字に依らない魅力的なキャラを生み出す所にもあったりするのだろうなぁと。きのこ先生が天才過ぎるゆえの罪ということなのか。フィクションのキャラ発言としてはテンプレですけど、リアルでそんなことあるなんて。初期の鯖不具合祭りの時に離脱していてよかった。




ともあれ、基本的には様々な『規制』とは国民の保護が目的であります。もちろんその範囲や強弱は最初に書いたように、政治哲学における永遠のテーマでもある。しかしそれは単純に劣悪な状況を排除するというだけでなくて、個人の行き過ぎを抑制するという意味もやっぱり昔からあるんですよね。
例えば労働時間規制なんかも単純に過度の重労働から労働者を守る為だけでなく、むしろ「お金が欲しい」労働者が積極的に働き過ぎてしまうことを抑制する為(現代日本ではバカにされそうですけど)という側面もあったりするわけで。それこそ自己責任と言われてしまいそうな余計なお世話と見るべき(アメリカ)か、それとも当然あって然るべき『規制』と見る(ヨーロッパ)か。
コンプガチャが「あくどすぎる」として消えていったように、まぁ紆余曲折ありながらも徐々に規制されていくのではないかと思います。それもこれもFGOのキャラがあくどいまでに魅力的過ぎたのがいけないんだ。


がんばれFGO