「マナーからルールへ」したことの典型的失敗事例

「行儀よく真面目なんて出来やしない」と嘯くやつらを懲らしめようとした結果。


学生の感情を害すな:米大学のニューノーマル - WSJ
面白い記事。PC運動の末路が巡り巡ってこんな現実(ニューノーマル)になってしまっているのは――見る人から見れば当然の結末と言うかもしれませんけど――愉快なお話だよね。本来善意の行為だったはずの目標が、フリーライダーや悪意ある運用によって劣化摩耗していく。「合理的な」人間たちの歴史って、いつでもこんなモノだろうというと身も蓋もありませんけど。

「ポリティカリーコレクト(PC、政治的に正しい)」という言葉が米国で使われ始めるようになったのは1960年代。当初は左派が自らの独断的態度を自虐的に言い表すために使用していた。だが80年代に入ると言葉が一人歩きし始める。人種・民族的に多様な学生という新たな一団が自らの要望を訴え始めたことがきっかけだ。彼らが要求したのは、少数派の意見を教育課程に加味することや、教室で使用する言葉に少数派や権力の座に就いていない人をもっと尊重した幅広い世界観を反映させることだった。

 さらに過去10年で、その意味に新たなニュアンスが加わった。大学授業料が高騰し、構内での子供たちの保護に親がより多くを期待するようになったためだ。ペンシルベニア大学で教育の歴史について教えるジョナサン・ジマーマン教授によると、そうした期待の高まりを受け、大学は学生の心身の健康に配慮しようと管理部門の職員を増やし始めた。それがきっかけで、何が政治的に正しいかを巡る議論が知的・文化的領域から心理的・感情的領域へとシフトしていった。

学生の感情を害すな:米大学のニューノーマル - WSJ

元々差別的しぐさの根絶というお話に対して、それに反発する人たちが大げさに合衆国憲法修正第一条=『表現の自由』を持ち出したことでこのPC論争は大いに盛り上がることになった。それが様々な紆余曲折を経りまくった結果、やがて反発していた保守派な人たちまで『配慮』の対象になりつつあり自由が脅かされていると。まぁぶっちゃけ自己成就予言という感じはありますけど。特定の人びとへの嫌がらせという「人種や性別」だけだったその特定の範囲が、(おそらくは善意の所作として)「性的志向や政治観」へと拡大し続けた果てにあった社会。次は一体どんな属性が配慮されるのかな?


現代でも尚アメリカに根強くある差別的な嫌がらせを正当化するつもりはまったくありませんが、一度その「特定」を認めてしまったら、次の「特定」に範囲が広がってしまった。
もちろん「悪人に人権はない」とばかりに開き直り弾圧することは可能だし、実際にそうしている人たちも少なくないわけですけども、しかし曲がりなりにも大学という場でそんな非文明的な振る舞いをするわけにもいかないよね。ていうかそれをやったら元々PCが目指していた野蛮さを否定した「文明的振る舞い」と完全に矛盾しちゃう。正義に在処は別にして、端から見ればシャーロッツビルでは誰も彼もがザ・野蛮人という感じですけど。
この辺は昔も書いたオバマさんの黒人大統領実現による意図せぬ余波、な構図が似ていたりもするのかなぁと。もし本当に白人と平等、あるいは既にそうなりつつあるように白人がマイノリティとなってしまったら、当然の今までの流れ上彼らもまた『配慮』されて然るべきである――と要求するのはまぁ理屈としては理解できなくはない。


かくして懸念されていた「自由抑止」の行き過ぎではなく、むしろ「感情救済」が行き過ぎているアメリカ。

 「ナショナリズムについて説明すれば、今はドナルド・トランプについて説明していることになる」とフレイザー氏は述べ、ムアパークの学生のほとんどは保守的である点を指摘した。「自分が職を失うことを恐れ、学生にもっと自由を与えられないことを私は恥ずかしく思う」

学生の感情を害すな:米大学のニューノーマル - WSJ

もちろんそんな行き過ぎた感情保護の運用に、制度を悪用してやろう的な邪な気持ちがまったくないとは言えませんけども、そもそも個人個人が良識として守ろうと目指していたマナーを、事実上の罰則付きの(咎められれば社会的に抹殺されるほどの罰)より強力なルールとして現実に運用してきたのだから、結末はそらこうなる以外にないよねぇ。


ということで個人的にPC運動の末路というこのニューノーマルを説明するならば、やはり本来「礼儀正しさ」や「無作法さの否定」として始まった公共マナーとしてあるべき社会を目指したはずのキャンペーンを、事実上の強制力を持ったルールとして実現しようとしてしまったところかなぁと。元々それに反発を抱く人たちから、そのルールに則った形で、悪用しカウンターされているのが現状じゃないかと。
――かといって、じゃあもし『マナー』のまま進めていたら今より良くなっていたかというと、そんなことは絶対にないと思うのでやらないよりやって後悔した方がマシかもしれない。


マナーに対してマナーで反対することはほとんど無意味でも、ルールに対して同じルールで逆襲することにはかなり大きな意味を持つ。今話題になっているtwitterの通報凍結なんかもそうですけど、表現の自由ってむつかしいよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?