「貧困は自分のせい」と「金メダルですごいのは選手個人」を繋ぐもの

いやまぁ誰もがポジショントークしているだけだろうというと身も蓋もありませんけど。



貧困バッシングの落語家・桂春蝶はネトウヨタレントとして売出し中! 韓国叩き、左翼叩きで第2のケント狙い?|ニフティニュース
ということで桂春蝶さんが炎上していたそうで。

〈世界中が憧れるこの日本で「貧困問題」などを曰う方々は余程強欲か、世の中にウケたいだけ。〉
この国では、どうしたって生きていける。働けないなら生活保護もある。
我が貧困を政府のせいにしてる暇があるなら、どうかまともな一歩を踏み出して欲しい。この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ。〉

貧困バッシングの落語家・桂春蝶はネトウヨタレントとして売出し中! 韓国叩き、左翼叩きで第2のケント狙い?|ニフティニュース

うーん、まぁ、そうねぇ。僕も昔は結構こういうポジション寄りではあったので安易に笑ってしまうと「来た道」オチになってしまいあまり強くは言えないんですけども、その是非や濃淡はともかくとしてこういう考え方自体は、やっぱりあるよね。
貧困は自己責任の範疇である。
まったく自己責任ゼロと言い切るのも間違っているし、100%自己責任というのもまず間違っているので、やっぱりそのグレーゾーンのどこかに答えはあるのでしょう。でもそうした問題で、どうにかして個性を発揮しようとしたり、耳目を集めようと強い言葉を安易に使ってしまうと見事に炎上してしまう。うっ、僕も頭が……。承認欲求を求めずにはいられないかなしきヒトのサガ。
ここでもう一つ面白い風景なのは、しばしば(おそらくは良かれと)彼のようにエクスキューズとして自身に貧困経験があると公言するのって、むしろ生存バイアスが疑われて説得力が全然伴わないのに、何故か多くの人たちが同じ轍を踏んでしまう構図だよなぁと。いやまぁ自身の経験による知見というのは、私たちの思想形成に決定的な影響を与えるものだし仕方ないかもしれませんけど。
賢者は歴史から学び、愚者は以下略。


ともあれ、まぁ別に「一貫して」自己責任を言うならば別にそれはそれで一つの考え方ではあると思うんですよね。最初にも書いたようにその解答は0か100かのどこかにあって、その答えは『時代性』とも言うべきその時の社会の空気感によって決まるものだと思うので。
失敗が自己責任の範疇であるなら、成功も自己責任の範疇であると。多様性ある自由社会に生きる上で、あって然るべき一つの意見ではあるでしょう。
――それこそ一緒に「金メダルは選手個人の功績」なんて言ってるなら。
大きく話題となったオリンピックの金メダルももやっぱり個人の能力だけでなく、上記のような周囲と(曖昧で濃淡ある影響力と支援と)共におそらく達成されていて、簡単にはそれを言うことはできないはずなのにそれを公言してしまう人はやっぱり少なくない。
だから今回の桂春蝶さんの件で面白いのは、何もそのある種平凡な『自己責任論』ではなく、オリンピック表彰を国家の栄誉と言いながら同時にその貧困の自己責任っぷりを言っている点かなぁと。本人がすごいのか、本人がすごくないのか、えーい、どっちやねん。



その意味で、「貧困自己責任」な人たちと「金メダルですごいのは選手個人」な人たちはある種の『自己責任論』を共有しているのが面白い構図ではあります。イデオロギー的にはしばしば対立しているはずの両者が実はほとんど同じことを言っている。……と言うと両者から怒られてしまいそうですけど。
失敗は自己責任だ(が、成功はみんなのモノ)。
成功は自己責任だ(が、失敗はみんなのモノ)。
一見真逆の事を言っているようで、彼らは同じ顔をしている。そこに論理的な一貫性が無いというよりは、ただただその場その場のポジショントークしているだけなのでしょうけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?