手段にしかならなかった「フクシマ救済」

またもや経験から学んでしまった。


「福島は危険だ」というフェイクが、7年経っても県民を傷つけている(林 智裕) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
ということであれから七年、であります。

では、こうした大きな影響力を持つメディアは、これまで福島の状況をどのように伝えてきたのでしょうか。

たとえば、前述の国連科学委員会の2017年報告書を報じたのは、読売新聞福島版と地元紙のみであり、全国紙やテレビでの報道は全くみられませんでした。

それどころかテレビ朝日系『報道ステーション』は、まるで「福島で被曝の影響によって甲状腺ガンが多数発生している」かのような誤った報道を繰り返し、これに対して2014年には環境省から「最近の甲状腺検査をめぐる報道について」とのタイトルで、異例の注意情報が発信されました。

「福島は危険だ」というフェイクが、7年経っても県民を傷つけている(林 智裕) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

個人的に、あの大震災を契機に変わったポジションがなんだったかと今聞かれると、原発や政府機能への失望というよりは、むしろマスコミ失望の契機であったかなぁと。原発運用の危険さ、あるいは政府の災害時対応の失敗については、誰がやっても概ね似た結果だっただろうとある種の諦観が強くて、それはひたすら「無能さ」の帰結でしかないと思うんですよね。
でも、当時のマスコミ報道はそんな「無能さ」よりも更に一歩進んだ、「邪悪さ」の領域にまで踏み込んでいたんじゃないかと。
それまでどうせ「毒にも薬にもならない」とタカをくくっていたそれが「あ、こういう人たちがこうやってデマと扇動で社会を動かすんだな」と――知識では知っていたものの――ほんとうに今更ながらにその実相を体験してしまった。ただただ扇動的な言葉を使う一部週刊誌よりもずっと邪悪さを感じる光景だったのは、リンク先にもあるような大手新聞が使う「ほのめかし」という戦略を使っていた点で、それは体面を守るエクスキューズとしてもまた読者への想像力を働かせるという意味でも効果的で、逆に感心してしまうほどの狡猾さであったなぁと。
こうした恐怖扇動を同じく上手く利用しているのが、欧州やアメリカでの移民難民への恐怖感情のそれで、まぁ左右も国も問わず人間社会どこにでもある普遍的な光景なのでしょうね。



いざ、という時に彼らは私たちの社会不安やデマを抑制する方向へ向かうのではなく、むしろそれを煽る方向に向かう。
やっぱりこれまでの歴史を見れば幾らでもあった悲劇ではありますが、それでも素朴にあると思っていた抑制機能ってやっぱり幻想でしかなかったんだなぁと今更に。愚者そのままに「経験」に学んでしまった私。


だから情報が錯綜し不確かだった当時からだけでなく、今になってもそれを言い続けているのは理解できるんですよ。それって震災被害救済・あるいは教訓として残すことを至上目的としているのではなく、ただただ手段として利用しているだけだから。逆説的に、直後からもポジショントークとしてフクシマを「目的ではなく手段」として報じる構図が始まっていただろうことを考えると、きっと次も、その次も、同じ光景が繰り返されるだけなのでしょう。
そこでの第一目的は被害救済ではなく、あくまでその先の(従来からのポジションに沿った)政治的目的がある。そんなんだからフェイクニュースが入り込む余地も生まれてしまう。無能さよりも邪悪さよりも、ただただ自身の正義感からポジショントークに利用しているだけ。ネット上のそれと同じく、大手マスコミでもフェイクニュースが蔓延する背景って結局そういうことなんだと僕は理解しています。



あれだけの大災害でありながら、結局は政争の具になってしまう現実。まぁ私たちの愚かさであると同時に、逞しさではあるかもしれない。社会的動物たる私たち人間の悲しきサガ。
みなさんはいかがお考えでしょうか?