「風評被害忌避」と「恐怖扇動」という両輪

公益を建前に個人的利益を図ろうとする人たち、というとまぁいつものたくましき人間たちの普遍的光景ではあります。



津波浸水想定区域 風評懸念、標識撤去 地元要望で静岡市 (@S[アットエス] by 静岡新聞SBS) - Yahoo!ニュース
静岡とかまさに「次」の大本命として考えられる中心地域なのにねぇ。いや、だからこそ過敏になってしまうか。

 静岡市は27日、同市駿河区の中島学区自治会連合会の地域内にある「津波浸水想定区域」の標識を撤去した。市が、海岸付近に設置した38枚のうちの5枚で、同区中島地区の国道150号中島交差点南側や大浜街道の大浜橋交差点付近などに掲げられていた。同自治会連合会が今年2月、「人口減少などの風評被害につながる恐れが強い」として、撤去の要望書を市に提出したことを受けた措置。

津波浸水想定区域 風評懸念、標識撤去 地元要望で静岡市 (@S[アットエス] by 静岡新聞SBS) - Yahoo!ニュース

うーん、オメガバカ。おわり。
――でもそれだけじゃ寂しいし、何か適当なことを書いておけばだれかほめてくれるかもしれない、ということでいつもの以下適当なお話。




ともあれ、賛同するかはともかくとして、そういう人たちが居てもおかしくない、という構図は理解できるでしょう。言霊を信じているのか、あるかもしれない危険性を口にすることすら拒否する人たち。もちろん「自助・共助の考え方が浸透している」とエクスキューズしているものの、でも標識って何もそこに継続的に居続けている人たちだけに向けられたモノでは決してないはずなのにね。いや、むしろそうした知見を持たない人たちにこそ向けられたモノだといえるかもしれない。


ただ、擁護できる面もあって、それこそ「過度に恐怖心を煽っている!」というのは、大震災と原発の議論で私たちも散々見た光景でもあるでしょう。「放射脳がくる」とかなんとか。だから利害当事者として、多かれ少なかれ風評被害を懸念する声があるのも当然ではある。
手段にしかならなかった「フクシマ救済」 - maukitiの日記
国から見捨てられ命を絶った、とある「母子避難者」の悲劇(青木 美希) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
だって現在進行形でいまだに福島のそれを煽っている人たちがマスメディアの中に居るんだから*1


その意味で、この風評被害を恐れる人たちと、恐怖を扇動する人たちって、車輪の両軸なんですよね。一方があるからこそ、もう一方が存在する素地が生まれる。
恐怖扇動があるから風評被害忌避が生まれるし、風評被害忌避によって危険性について適切な議論が妨げられるから(安全神話が生まれる要因でもある)かくして恐怖扇動はより加速する。


何も両者ともにただ単純に「愚か」だからこうなっているんじゃないんですよ。それだったら話は簡単だった。ただどちらも広い公益よりも実現したい私益(あるいは自分が公益だと信じているなにか)があるだけ。一応は個人主義を信じる我が国だものね。仕方ないよね。


恐怖を扇動することで政治的目的を達成しようとする人たちと、自己利益から危険性の議論を公から隠そうとする人たち。共存状態の両者。それが結果的にもたらすデメリットを考えれば共謀とすら言えるかもしれない。結果的に両者winwinだもんね。それ以外の大多数の公益? なにそれおいしいの?
どちらが先かという議論にはおそらく意味はなく、一方の存在が、もう一方の大義名分になっているという地獄。
一方だけを責めてもその連環は終わらず、どちらが一方がある限りひたすら人間社会における負の連鎖として害悪を生み出し続ける。悪い魔女か何かかな?



私たちが逃れられない人間のサガ。ありがちで、ありふれた、ネバーエンディングストーリー
風評被害忌避と恐怖扇動の繰り返しによる帰結。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:上記日記で引用した「福島は危険だ」というフェイクが、7年経っても県民を傷つけている(林 智裕) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)も現代ビジネスで、マッチポンプがお上手ねぇと感心してしまう構図であります。