現代版「国家理性vs宗教的情熱」

宗教あっての人生か、人生のあいまに宗教か。


どこまでもイスラム世界: コーランの章句を無効化せよ:フランス著名人らの共同声明にイスラム教徒反発
おもしろいお話。「反ユダヤだ!」という批判と、「反イスラムだ!」という批判同士の戦い。一体どちらが勝つのか。現代ヨーロッパ社会にある最高峰の矛盾のひとつという感じ。端から見ている分には『文明の衝突』の最前線っぽくて非常に参考になるので、いいぞもっとやれ感はあります。

この声明には、カトリックの総本山たるバチカンも聖書の過ちをみとめ反ユダヤ主義と決別したのだから、イスラム教も同じようにすべきであると記されています。

しかし、これは論理として全く成立していません。

いくら声明に名を連ねているのが著名な「セレブたち」だとはいえ、イスラム教徒はこんなことを言われたところで反発するだけで、「反ユダヤ主義」を食い止める効果など全く期待できません。

どこまでもイスラム世界: コーランの章句を無効化せよ:フランス著名人らの共同声明にイスラム教徒反発

その善悪はさて置くとして、上記引用先でも言われている通り彼らがイスラムに広義の『配慮』をしてきたのは事実でしょう。もちろん本人たちは否定するでしょうけど。イスラムフォビアイスラム嫌い)」 だと批判されることを恐れてイスラム過激派による反ユダヤ主義の断罪を避けてきたメディアたち。
イスラム側がそれを受け入れるかどうかはまったく別問題なものの、世俗国家・近代国家としてはマトモな要請ではある。




ともあれ、ここで面白いのは、声明を出した「セレブ」たちを、所謂ヨーロッパエリートの一部であろう「知識人」「賢人」と見ると、欧州の歴史的な政治風景が浮かび上がってくるんですよね。
つまり、古き良きマキャベリズムが。
国家の役割として最優先にすべきなのは、倫理的な規則や宗教的教義を尊重するためにどう行動するかではなく、国民の平和を保障することである。彼らが言っているのって結局そういうことでしょう。宗教の利益よりも、現実世界での利益を守るべきである。
「理性ある、ということはつまり我々のことである」
政治対宗教、その構図における適切な振る舞い方についてまさに当時のエリートの如く賢き彼らは、ありがたくも下々に説教をしてくれている。16世紀かな?
欧米社会で『宗教』が戦う最終防衛ラインの今 - maukitiの日記
レスプブリカ・クリスティアーナは衰退しました - maukitiの日記
今回の要請って、こうしたヨーロッパ人たちの基礎にある国家政治の概念が何なのかそれをよく示唆しているんじゃないかと。宗教とは国家秩序の為に「配慮」すべき存在でしかない。かつてヨーロッパ社会における規範と生活様式をかなり支配していたキリスト教が、国家理性の下に去勢されていったように。しかし飯山先生は、フランスのセレブ達は尚も無邪気な傲岸さを見せているあたり、キリストとは違うイスラムとの微妙な力関係のバランスを未だ理解していないだろうと言っている。まぁその通りなんでしょうね。

故にキリスト教は最早去勢された存在である。少なくとも西欧においては。

――でも現代のイスラムは尚もそんな弱弱しい存在なんかでは決してない。『妥協』の主従関係はまだ逆転していない。故に彼らは世俗にある自由とは妥協しない。する必要がない。

イスラム教が本質的に「不寛容」であるから、逆にキリスト教が本質的に「寛容」であるから現代のような構図になっているわけではなくて、ただキリスト教はかつてのその試みに失敗し、イスラムは尚もまだその試みの途中であるというだけ、なのではないかと個人的には理解しています。

レスプブリカ・クリスティアーナは衰退しました - maukitiの日記

はたしてイスラムが『譲歩』するような転換期はやってくるのか? でもその譲歩って以前のキリスト教はかなり血を流した結果でもあったわけですけど。


ちなみにマキャベリ大先生の言葉に従うと、宗教的暴動を許してしまうくらいなら民衆を弾圧した方がマシだ、となっているのでヨーロッパの行く末をちょっと考えてしまいますよね。
実際に東欧ではかなりあからさまに、西欧ですら徐々に「モスク乱立は禁止」「公共の場でのブルカは禁止」「異性と握手しないのは禁止」「早朝に(スピーカーでの)アザーン禁止」という方向へ徐々に進み始めているわけだし。
キリスト教が(個人)自由主義と既にかなりの面で妥協しているように、イスラムも世俗の自由と妥協しないなら法と権力でそうさせるしかない、のか?


彼らはそうやって、少なくともキリストと同等程度の扱いに=イスラムを去勢化しようとしている。現場でその平等性が守られているかは諸説ありそうですけど。どちらにしても、それってかなり可燃性が高いのは間違いないでしょう。
外野から「より共存できるように相互理解を深めよう」とか使い古された正論を言うのも簡単ですけれども、しかし実際にかなりの危険水域で摩擦が高まっている現状で、それ以外に何か現実的な選択肢があるのかというと……、うーん、まぁ、そうねぇ。


宗教教義が市民生活に影響を及ぼすことを認めることについて、信教の自由を最早自明の論理としてしている「理性ある」私たちは一体どこに線引きをするべきなのか。多文化主義を掲げたヨーロッパは新たな異邦人たちと戦い続けている。
みなさんはいかがお考えでしょうか?