歴史は終わらず、文明が衝突する

ついでにフラットな世界もやってきそうにない。


『歴史の終わり』のフクヤマ氏、米国政治を一刀両断 保守・リベラル対立は「アイデンティティ闘争」だ(1/5) | JBpress(日本ビジネスプレス)
フクヤマ先生の面白いお話。これだけで日記なんぼんも書けちゃうね!(書けない)  えいごとかもぅマヂ無理……なので邦訳はやくして。

言い換えると、この政治闘争は物質的な利益を巡る対立というよりも自らの存在を社会に認識させようとするアイデンティティ闘争なのだ。

 これは米国だけの問題ではない。

 現在どちらかというと国際社会の主役の地位を確実にしていない、かって「大国」として認められた国家だったロシアや中国やハンガリーに『権威主義者』が登場し、世界秩序にチャレンジしているのも、このアイデンティティの問題にあるのだ。

 フクヤマ氏はこうした現実を「Identity Politics」と表現している。「アイデンティティを巡る政治闘争」とでも訳すべきか、フクヤマ氏はこう記述している。

『歴史の終わり』のフクヤマ氏、米国政治を一刀両断 保守・リベラル対立は「アイデンティティ闘争」だ(1/5) | JBpress(日本ビジネスプレス)

アイデンティティ闘争、ですって。昨今の様々な世界の情勢を考えると頷くしかないお話だなあと。


上記でも示唆されている中国ロシアハンガリーだけでなく、移民難民問題で揺れるアメリカやヨーロッパの国内問題(おそらくは近い将来の日本でも)でも『極右』と称される反移民な人たちがなんだかんだで躍進するのって、結局はこの理由が一番大きいと個人的には思っているんですよね。もちろんそこには治安や経済などの諸問題もあるものの、しかし最も重要なのはコミュニティ存続への危機感がそこにあると。
――もしこのまま見知らぬ外国人たちが多くなっていけば、やがて現地社会から多数派少数派が逆転し、これまで続いてきた伝統社会が消え去るかもしれない。
白人が少数派になる米国で今、何が起きているか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
これは何もありそうにもない杞憂なんかではなく、既にヒスパニックの勢力に負けているアメリカ南部や、あるいはヨーロッパ大都市での周縁で次々と生まれた(既存住民が安易に近づけなくなった)移民コミュニティのように現実に生まれている光景であるわけですよ。
不幸の総和 - maukitiの日記
この辺は少し前に『現状維持バイアス』で日記ネタにしたお話でもありますが、何も移民受け入れで既存社会が崩壊する可能性だけでなく、リベラルな人たちが常々言うようにニューカマーが増えることで多文化共生な、前よりもずっといい社会が生まれる可能性だってある。
しかしそうであったとしても、少なくとも一定以上いるだろう既存社会が持つ伝統的風景に憧憬と愛着を抱く人たちにとっては受け入れたくないお話である。何故ならそれこそが彼らの地域生活と結びついたアイデンティティでもあるから。悪化は論外としても、そんな「良い変化」であっても、必然的にこれまであった社会とは違う何かが生まれることには違いない。


この「アイデンティティ」を基にした闘争が私たちが世界中で既に見ているように、何故ああして過激化していくのかというと、そこに取引・妥協の生まれる余地がかなり小さくなってしまうから、でもあるんですよね。アイデンティティがその人の来歴や背景から生まれるでもあることを考えれば当然の帰結でもある。
もしそこで、多少なりとも妥協的な政治決着が生まれれば、そのまま自身のアイデンティティそのものを否定することに繋がりかねない。


本邦でも、亡くなった沖縄前知事が「イデオロギーよりアイデンティティ」とやっていましたけども、だからあれってつまるところほとんどそのまま妥協の余地のない反基地のための――日本政府は沖縄の住民意思を尊重せよ!――徹底抗戦という意味でもあるんですよね。まぁ結束力を強め戦意鼓舞という意味では間違っていない戦術ではある。
つまり「オール沖縄!」である。伝統ある戦前戦中の大日本帝国っぽさは否めないけれけど。
少なくとも今現在に日本の国会議員なんかが「これからは(日本人としての)アイデンティティだ!」とか言ったらおそらく炎上不可避でしょう。しかし既に欧米世界でその潮流が見られるように、沖縄がもうそうしているように、そうした声が日本国内政治でも大きくなっていく可能性は低くない。
アメリカファースト、東京ファースト、沖縄ファーストな人たち。
私たちはグローバルな世界環境であればこそ、より小さなアイデンティティに価値を見出すようになっている。


ちなみに、このアイデンティティをめぐる闘争に危機感を持っていたのが『文明の衝突』でお馴染みのサミュエル・ハンチントン先生でもあったわけですよ。彼は未来の戦争を引き起こすのは単純な「敵か味方か」というよりは「あなたは何者か?」という点だろうと述べていた。異邦人であるということは、そもそも想定する価値観も利益もルールも違う人間であるということだから。そうした人たちと一緒に協力して生きていくのは、不可能とは言わないまでも、むずかしい。
かくして文明は衝突する。違うアイデンティティを持つ間では容易に妥協できず、そもそも想定すべき共通の『利益』すらおぼつかない。
カナダ首相、サウジの人権状況を引き続き懸念 | ロイター
人権擁護こそを絶対の大義名分に掲げるカナダのトルドーさんによる、国内秩序維持を目指すサウジとの対立なんてその典型ですよね。国家間の政治的妥協を如何に生み出すのかというルールブックでもある外交に、宗教や道徳を持ち込むことがタブーとされてきた理由。それを持ち出してしまっては、国家間=文明間でのアイデンティティの衝突一直線ですよ。



であればこそいつか私たちは更に大きなアイデンティティの再定義――同じ人間じゃないかというだけで一体感を持つことが期待されていた。少なくとも冷戦後新世界ではそういう未来を夢見ていた人たち(僕自身含む)がいっぱい居た。歴史は終わったのだ。国連を越える全世界共同体まったなし。欧州共同体は欧州合衆国になるのだ。
しかし悲しいかなそのタイミングは21世紀の今ではなかった。
それは既にかなり多くの共通性を持っているはずの日本語を使ったインターネット上のSNSなんかで、私たちが毎日目撃しているひたすら不毛なやり取りを見るだけでも、嫌というほど理解できてしまうお話ではありますよね。


アイツは自分たちとは違う〇〇*1アイデンティティを持つやつらとは一緒にやっていけない! 
〇〇は同じ人間じゃない、違う人間だもんな! そうしてしまえば議論や妥協が生まれる余地すらない。世界平和とは真逆の方向へ。



みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:右でも左でも本土でもウチナンチュでもオタクでも男でも女でも性的嗜好でも、みんなも自分に都合のいい属性を入れよう!