うんうん、これもまたタブンカシュギだね!

思わぬところで多文化主義の練習が。


悪ふざけ動画でくら寿司が訴訟 従業員は高額賠償を求められる可能性 - ライブドアニュース
そういえば数年ぶりに、ナウでヤングな若者たちによる爆笑必至おふざけブームが再燃しているそうで。

 不適切動画を巡っては、回転寿司大手くらコーポレーションの「くら寿司」店舗内で、従業員が食材の魚を使って悪ふざけする姿がネット上で拡散。同社はアルバイト2人を退職処分とし「刑事、民事で法的処置の準備に入った」と発表した。

 同様の不適切動画の投稿は13年にも多発。投稿者自身もネット上で身元を特定されるなど被害を受け、主にツイッターが使われたため「バカッター」と呼ばれた。再燃の背景には「TikTok」など新たな動画サービスの誕生やアプリの進歩がある。バカッターが画像から動画に“スケールアップ”した形だ。

悪ふざけ動画でくら寿司が訴訟 従業員は高額賠償を求められる可能性 - ライブドアニュース

うーん、まぁ、そうねえ、オメガバカ
それだけじゃ寂しいし、何か適当なことでも書いておけば誰かほめてくれるかもしれないので、以下な思考実験のようなお話。




というだけでは終わらない面白い話もこの辺にはあるんですが、
「友達は選びなさい」の先にあるもの - maukitiの日記
なぜ彼らは炎上(爆破)芸に走るの? - maukitiの日記
2013年当時話題になっていた頃にも以前散々書いたお話でもありますが、基本的なポジションとしては変わっていないので、お暇な方はそちらをご笑覧頂ければ幸いであります。

ここで重要なのは、違う世界に生きると言うことは単純にそこの人々と恒常的な相互交流がなく縁がないというだけでなくて、そもそもそこの人々と思考の基礎となる価値基準や常識というような『世界観』そのものに差異が生まれているということでもあるわけです。日本人と外国の人たちとの間に多くの考え方で違いがあるように、同じ日本人であろうと、違う社会集団であれば当然まったく違う考え方を持っているものなのです。そしてそれを決めるのは内部の人間達であり、外から部外者が何を言ったところで、現実的な圧力を伴わない限り基本的には何を変わることはない。

ある集団にとっての健全さや人気の尺度は、別の集団にとって無知の目安ともなる。それは物理的対象の知覚に対してさえ影響を及ぼすのだから、いわんや政治的・倫理的・審美的基準をや。

「友達は選びなさい」の先にあるもの - maukitiの日記

「今の」若者たちが何をクールと見るかは、オジサンオバサンな私たちからは理解しにくいのも当然なんですよね。だって彼ら彼女らは、一見私たちと似ているようで、しかし確実にかつてとは微妙に違う現代の世界で生きているのだから。世代だけでなく、今でも既に日本国内における、東京と都市圏と地方とではかなり文化的価値観の相違がある、というのは既にかなり語られているお話でもあるでしょう。
別の文化圏の人間たち。
こちらでは常識と思っていたそれが、しかしあちらではそうではない。それを非常識とまではいかなくても、最早考慮するほどの価値がないモノと見られても何も不思議ではない。
毒にも薬にもならないプライベートな日常だけでなく、挙句に裸や悪ふざけまで、気軽になんでもかんでも動画でアップロードしてしまう新時代の若者たち。
それを理解できない私たち古い世代がおくれてるだけなのか?
それとも彼らのような振る舞いこそ新時代のスタンダードなのか?




逆説的に、そうした自分たちの既存価値観に従っているようにみえない若者たちを「無知」「最近の若いモンは……」と切り捨てるのは、ある意味で幸せなことでもあると思うんですよね。
確かにそこには同じ日本社会の構成員というだけで、かの若者たちと私たちの間には少なくとも一定以上の相似性があり、故にその連続性を以って「その行為は間違っている」と気軽に断罪することができるから。


しかし、現代の多文化主義に苦しむ欧米世界を見ると、そんな風に「異文化な」人たちとの微妙な距離感から端的に片づけられない構図が見えている。
欧州「移民受け入れ」で国が壊れた4ステップ | 国内政治 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
(内心では薄々思っていても)様々な建前から簡単にバカだと切り捨てられないまま、かといって社会への不満からその一線を越えてしまう人たちの増加も抑えられない欧米世界。
多文化主義の失敗の本質。異文化の『常識』と私たちの『常識』がコンフリクトしたとき、一体どうすればいいの?

従来、欧州の知識人層は、移民出身者であっても、欧州で長年暮らすうちに自由民主主義的価値観になじみ、それを受容するはずだと想定していた。しかし、実際はそうではなかった。言論の自由や寛容さ、ジェンダーの平等などの価値を共有しようとはしない者は決して少なくないと著者は述べる。

欧州「移民受け入れ」で国が壊れた4ステップ | 国内政治 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

少なくとも私たちは同じ日本人として、今回のような「バカな振る舞い」をする子供たちがいつか大人になって同じ価値観を受容するはずだと、ほとんど確信に近いレベルで考えている。
常識的に考えてそんなことはするべきではない。
だから、このようなバカなことを一時の若気の至りでしかないのだと。


新世代の若者たちにしろ、あるいは国外からやってくる移民たちにしろ、どちらも彼ら彼女らは私たちの社会に新たにやってくるニューカマーには違いないんですよ。


では、もし、私たちが持つ『常識』を受容しない人たちがいっぱい来たら一体どうすればいいの?
――と、考えると、今回のようなバカげた振る舞い(それ自体がある種の傲慢さを含んでもいる)への対応は、移民が益々増えるだろう日本における多文化主義の未来について考えるいい練習台になるんじゃないかと少し思うんですよね。
ただバカだと断罪するだけでなく、失敗してもそこまで致命的な不利益のないテストケースとして。


もし、私たちが受け入れられないような「文化」をする人たちが社会にやってきたら一体どういう風に振る舞うべきなのか?
今回のように、まさに親が子に教えるような上から目線で「バカはやめろ」と断罪すればいい?
それとも(欧州のように)彼らをアンタッチャブルとして批判しないまま、見て見ぬフリをするべき?


みなさんはいかがお考えでしょうか?