動物愛護と中絶反対派をつなぐもの

「動物はごはんじゃない」「胎児は赤ちゃんじゃないの!?」と、私たちの罪悪感に訴えかけるもの。





「セックスは子作りじゃない」 - maukitiの日記
そういえば昨日の中絶ネタ日記の蛇足と言うか本題日記。

ただ、この中絶是非について燃え続けているアメリカを「宗教保守による~」という文脈だけで見るのもあまり正確ではないんですよね。もちろん宗教が重要な要素であったことも間違いないんですが。

「セックスは子作りじゃない」 - maukitiの日記

90年代以降の現代アメリカにおいて、中絶反対があそこまで盛り返したのかを改めて見ていたんですが、その転換の要因の一つとなったものに「女性の権利」から「胎児の権利」というのがあったんですよね。
そしてそのプロパガンダの目的もちろん、そうした概念を普及させることで私たちに罪悪感をより強く持たせるように、である。
実際それは効果はあって、プロチョイスからプロライフへと少なくない人たちを転向させることになった。



後期中絶に焦点を絞ることで効果を上げた、プロライフ=中絶反対派たちの『胎児の人間化』というさえたやり方。
つまり中絶は殺人である。胎児に人権はないのか?
「胎児は赤ちゃんじゃないの!?」なんて。
「神の教えにより~」云々を言われるよりもずっとダイレクトに感情へ訴えかけるうまいプロパガンダだよねえ。そりゃ中絶反対派も盛り上がっちゃいますわ。
こうしたリベラルの逆流のような価値観は、まさにそこに元々一定以上現代的リベラルな考え方が根付いているからこそ効果的もあったわけでしょう。元々人権なにそれおいしいのな社会では効果はあがらない。むしろ人間の基本的権利は大事だよね、という大前提がそこにあるからこそ、


中絶は殺人ではないのか。意識はあるのかないのか。
そして議論は本来あった『女性の権利』についてではない、『胎児の権利』という出口なき論争へ。


この私たちの『罪悪感』の効用を、上手く利用しようとしているのがネットでも話題になっていた「動物はごはんじゃない」のような動物愛護の運動でしょう。
動物はごはんじゃないデモ行進 参加してください!March for farm animals
正直あまり上手いプロパガンダではなく、ぶっちゃけネット民の大喜利おもちゃになっていた印象ですけども、しかしそのアニマルライツなメッセージが意味するところは理解できますよね。
動物の人間化によって、上記同様私たちへより強い罪悪感を持たせようとしている。
いつかの反対派たちが残酷に誇張された堕胎手術の絵をプロパガンダに使っていたように、動物を愛する彼ら彼女らは過酷に虐げられた動物たちの絵を使う。
中絶議論でもそうだったように、こうした手法はそれなりに効果があるモノでもあります。
「それなりに」リベラルである日本社会、というポジションに立つ僕にとっては、その一点において、彼ら彼女らの言うことはあまり笑うだけでは済まされないようなちょっとばかりの恐ろしさはあるかなあ。その点で確かに説得力がないわけでもないし。
まさにその「かわいそう」という罪悪感な気持ちとともに。



しかしまったく野次馬根性というか怖いモノ見たさというか、動物の権利をすすめるヴィーガンの人たちの主流としては、『胎児の権利』が問われるようになった現代的中絶議論においては一体どちらのポジションを支持しているのかはちょっと興味あります。

  • もちろん中絶反対派を支持――するだけでなく「例外もある中絶反対なんてトランプは生ぬるい!」とか言うのかな。
  • それとも「動物はそうでも、胎児はまだ人間じゃない!」とか言うのかな。PKディックぽーい。


罪悪感を使ったプロパガンダについて。
みなさんはいかがお考えでしょうか?