表現の自由やってみた・その後

一昔前のニコニコらしい「~やってみた」シリーズではあるかもしれない。



津田大介氏、開幕前のネット番組発言も謝罪 「トップとして、ふさわしくない発言でした」 : J-CASTニュース
ということで更に延焼が広がっていたようで。

ニコ生で津田氏は「天皇」をモチーフとした作品が展示されることを示唆し、「令和の今だからこそ、違った意味を感じ取れると思うんですよね」「2代前じゃん。2代前になると、人々の記憶も、2代前だし、なんか歴史上の人物かな、みたいな。そういう捉え方もできるかもしれない、とかね」などと発言。こうした部分があいちトリエンナーレ開幕後に拡散を続けていた。

津田大介氏、開幕前のネット番組発言も謝罪 「トップとして、ふさわしくない発言でした」 : J-CASTニュース]

まぁ素晴らしい「言論・表現の自由」の実践ではありますよね。
個人的にはそうした「2代前だし、なんか歴史上の人物かな、みたいな」という基準はガバガバ過ぎてどうかと思うんですが、まぁそれを言う自由はやっぱり彼にはあるわけで。正しく表現の自由を実践していると言うことはできる。自由ってすばらしいよね。
キム・カーダシアンの「キモノ」に怒った日本人よ、ジンギスカンの料理名を変えて | 楊海英 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
一方で、世界には2代前どころか、数十代、あるいは神話の時代ですら割と話題にするのに慎重な配慮が必要なネタだって少なくないのにね。
もちろん「この社会では違う!」と開き直ることもできますけども、現代社会の多文化・グローバルな世界ってつまりそういう事が広く曖昧になっていくという意味でもある。
このネタを扱った以前の日記でも触れたフランスの「私はシャルリー!」の大事件なんて、まさにその典型的事例だったはずでしょう。故にリベラルな社会で生きる私たちの重要な教訓であり前例であり、そこから多くの事を学び議論していくべきニュースでもあったのにね。
シャルリーの事件からまるで学べていない人。


私たちが「自由にモノが言える」ということは、言ったことがそのまま「相手に聞かれる」という意味でもある。
つまり自由だからこそ、自分の言葉を広く届けるためにもより慎重にその言葉を選ばなくてはいけない。もちろんその自由を使ってわざと炎上させたり、相手を怒らせたら勝ちとかぬかしてしまう人もいますけど。しかし今回の件ってこうして謝罪してしまっている辺りそうではないようだし。
自由にモノを言えるというのは、決して、聞いた相手にその言葉を歓迎させることまでを強制するものではないのだから。
このブログを好きに書いている自戒としても。


皮肉なことに私たちが自由であればあるほど、そのやらかした時の被害は大きくなる。
香港デモと中国政府の「本音」 反中ユーザーSNSへの攻撃は止められていた | 風刺画で読み解く中国の現実 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
――まさにそうやって「自由の制限」をすることで父権主義的に「国民のやからし」を防ごうとするのが中国的統治手法でもあるわけでしょう。
まぁそうしたポジションに立つのであれば、今回の顛末って「自由は危険である」ということを身をもって教えてくれているのかもしれないね。


イベントを企画する程度には「自由」に対して熱心であったはずなのに、しかしこうしてその「自由の責任」に対してはガバガバだった人。
とってもよくできた寓話のようなお話。


みなさんはいかがお考えでしょうか?