(普遍的人権という)歴史は終わっているか? 前半

本題に入る前の前フリが長すぎたので、二分割。


なぜ平和の少女像を「日本国民の心を踏みにじる行為」と感じる人びとがいるのか? | The HEADLINE
幾つか気になる点はあるものの、概ね同意できる面白いお話ではあるかなあと。


本題でもあるように、(反中反北ポジションもあって)彼ら自身もそれなりにリベラルな価値観を受け入れているだろうに、一部ネトウヨ的な人たちはその旧日本帝国時代の負の歴史について認めることを恐れ過ぎだよね。
べつにそれを認めたって僕自身の懐が痛くなるわけじゃないのに。「私たちの父祖たちの名誉が~」という論理には一定の説得力がありますけども、でもそれを言ってしまったらそもそも我らが父祖たちが惨めにも戦争に負けてしまったのがまず第一義の責任としてあるわけだし……。『高い城の男』も『ユナイテッドステイツオブジャパン』も現実にはならなかったんや。


ただ、基本的に何故、上記リンク先でも言及されているドイツなどの欧米社会の政治家たち――他にはカナダやオーストラリアなど――がこうした負の歴史に対する謝罪に積極的なのかというと、そもそもそれが「大衆にウケるから」という身も蓋もない要因もあったりするわけでしょう。
(歴代米大統領などが「広島長崎への核攻撃」の是非について、はっきりと過ちだとなかなか言えなかった理由も同様でもある)

こうした言説は今にはじまったことではないが、改めてなぜ河村・松井両氏のような人々は平和の少女像の展示を「日本国民の心を踏みにじる行為」だと感じるのだろうか。

なぜ平和の少女像を「日本国民の心を踏みにじる行為」と感じる人びとがいるのか? | The HEADLINE

だから日本の政治家であるが彼らがそう感じると発言するのも無理はないとは思うんですよね。だってそれが有権者の声だ、と正しく選挙で選ばれた政治家である「彼らが」そう思っているから、というお話でしょう。それが合ってるか間違っているかはともかくとして。
リベラルな欧米政治家たちの常套手段の一つである、政治的アピールとしての、負の歴史に対する『謝罪』『遺憾の意』。
(それを是とする有権者が背後に居るならば)ほとんどコストゼロで、自らは歴史上の問題についても謝罪がきちんとできる度量の大きく率直な人物であるという存在証明ができる。
結局、日本の政治家と、欧米政治家を分けているの最も大きな分岐点ってこういう問題でしかないとは思うんですよね。
どちらも民主的選挙が正しく機能している、というだけ。
別に彼らを庇うつもりは1ミリもありませんし、政治家として支持するつもりもありませんけど、それなのに「河村・松井両氏のような人々」と有権者ではなくまず政治家の名前を挙げているのはちょっとズレているよね。
彼ら政治家の存在が証明しているのは、そうした『「日本国民の心を踏みにじる行為」だと感じる』有権者でしかないわけだし。


その意味でいうと、昨今の徴用工問題はそうした形而上の「罪の意識」「人権意識」という基本ラインを越えてしまった故にここまで大問題となってしまった=故に日本の有権者世論として予想以上に大きな反発を受けたことが背景にあるのを指摘しないのはちょっとフェアではないよね。
それをやってしまうと「どうせ懐も痛まないので謝罪し得」という欧米政界にもある基本構図が崩れてしまう。
あれさえなければ今回の平和像も、もうちょっと静かな雰囲気でいけたんじゃないかなあ。


ちなみに、ここで面白くまた皮肉な構図としてあるのは、当然の帰結として「負の歴史」の罪が重ければ重いほど謝罪することによる政治的リターンは大きくなるわけですよ。
だから本邦でも南京やら慰安婦でもしばしば聞かれる「言及された被害数字が過大すぎる」という構図すら、私たち日本特有の問題じゃないんですよね。
――とりあえず規模を盛った方が、謝罪することの意味がより大きくなる。政治的アピールとしてはより効果的になる。
インフレしていく「負の歴史」は、単純に被害側から誘導している構図ではなくて、加害者側=謝罪する側がより大きな政治的利得を得るための方策として、言及される罪の大きさは巨悪化していくことになる。
より多くの虐殺があった。
より多くの破壊があった。
より多くの収奪があった。
だってその方が今やる「謝罪の価値」が大きくなるから。
しかも謝ったところでやっぱり自分の懐が直接痛むわけないんだし。謝るだけならタダ――どころかむしろ得がある、と考える賢しい政治家たち。
日本にもいっぱいいますよね。謝罪できることが政治家としての価値の向上となる(と有権者が信じているだろう)と確信する政治家たち。そしてその反対側には上記のような人たちがいる。
その是非はさておくとして、いやあ政治家って左右どちらもたくましいよね。


たぶん次回の本題に続く。