(普遍的人権という)歴史は終わっているか? 後半

ということで承前。
(普遍的人権という)歴史は終わっているか? 前半 - maukitiの日記
(普遍的人権という)歴史は終わっているか? 中 - maukitiの日記

現代世界において、人権という概念は国家の利害や個人の感情よりも尊重される普遍的な存在である。どういった理由があれ、そうした価値に挑戦すると見なされる言動は非難を浴びることになり、不正義であるという誹りを免れない。平和の少女像によって日本人が傷ついたと考える人びとは、その理解が決定的に欠けている。

なぜ平和の少女像を「日本国民の心を踏みにじる行為」と感じる人びとがいるのか? | The HEADLINE

人権という概念は、「国家の利害」や「個人の感情」よりも尊重される存在である、という点には異論はない。
ここで重要なのは、現状を見る限り必ずしもそれが最上位というわけでもない、という点なんですよね。


(自分たちがこれまで努力して進めてきた)人権という概念よりも重要なモノがある、とまるで国家主義ネトウヨのようなことを言っている――というよりは実際に行動で示唆しているのが、現代のヨーロッパ社会でもあるわけですよ。

問題の一つは、イスラム教が――オランダのキリスト教徒とは違って――教会と国家の分離を実現していないことだった。政教分離はオランダ人に言論の自由報道の自由などの様々な人権を与えているばかりではなかった。それなくしては聖職者が聖典を根拠に公共の場に侵入してくるのを防ぎようがなくなるのだった。
フォルトゥインがイスラム教に異を唱えたもう一つのポイントは、性差に対する姿勢の違いだった。彼はイスラム教徒の女性も他のすべてのオランダ女性と同様に解放されるべきだと主張した。さらにフォルトゥインは性的少数派に対するイスラム教の姿勢も厳しく批判した。オランダ社会は世界に先駆けて男女の平等や、異性愛者と同性愛者の平等を規範化するための法律を作ったり、文化を醸成したりしてきていた。イスラム教国の実情(厳格さは国ごとに違ったが)が示すとおり、これらの原則はイスラム教とは 相容れなかった。
しかしこうした相違が明白であるにもかかわらず、オランダ社会は自らの寛容ぶりが、最も急速に拡大するコミュニティの不寛容ぶりと共存できるという振りをしようとしていた。フォルトゥインは、それは不可能だと感じていた。*1

移民難民と共に欧州社会に持ち込まれたイスラム教が(ヨーロッパ的な)『人権』とコンフリクトしたとき、一体彼ら彼女らはどのように振る舞ってきたのか?
――というと、まぁ多文化社会を尊重し人種差別を忌避する「善き」隣人であった故に、彼ら彼女らはそれを見ないフリをしてきたわけですよね。
それどころかその反論を人種差別的だと封殺してきたのが2000年代のヨーロッパ社会である、とマレーは上記著書の中で批判している。
言論表現の自由や女性の権利を用いてのイスラム教への批判は、きれいなヘイトである、なんて。


その結果として彼ら自身のそれまであった自由や平等や人権といった意識が後退することになったわけですけど。
つまり、欧米社会におけるリベラルさの大前提であった『人権』という概念は、人種差別反対や多文化社会賛美というコードに抵触する場合にはしばしばその存在を失ってきた。
結局人権とはあくまでそれよりも下位に位置するものでしかなかった。
普遍的な存在()
不正義であるという誹り()
理解が欠けている()


この辺はハンチントン先生が『分断されるアメリカ』の中で「多文化主義は本質的に欧州文明に敵対的であり、基本的に反西洋的なイデオロギーだ」と述べていた構図そのままではあるんですよね。
まさにそれは「普遍的」ではない「西洋的」人権意識であって、必ずしも全世界の人たちを射程に入るようなものではなかった、と。
やっぱりフクヤマの『歴史の終わり』より、ハンチントンの『文明の衝突』がナンバーワン!



イスラム教が「そうした価値に挑戦すると見なされる言動」をした際、本当に彼ら彼女らはそれを不正義であるという誹りすることができなかった。
彼ら彼女らは正しく沈黙した。

どういった理由があれ、そうした価値に挑戦すると見なされる言動は非難を浴びることになり、不正義であるという誹りを免れない。平和の少女像によって日本人が傷ついたと考える人びとは、その理解が決定的に欠けている。

なぜ平和の少女像を「日本国民の心を踏みにじる行為」と感じる人びとがいるのか? | The HEADLINE

「どういった理由があれ」というものには実は例外がいっぱいあった。でも仕方ないよね。だって例外だもん!



核廃絶の前には他者の人権などどうでもいいし、
戦争反対の為には他者の人権などどうでもいいし、
多文化社会を維持する為には自分たちの人権規範に固執していては不可能だし、
人種差別を避けるためには自分たちの人権意識などないことにした方がいいし、
――まぁ私たちには『人権』よりも重要で尊重すべき概念があるから仕方ないよね。


私たち日本人が中国や北朝鮮の政府による政治的弾圧に対する態度から見て、
ヨーロッパ社会が寛容から見せているイスラム教への態度から見て、
普遍的人権という歴史は終わらなかった。少なくとも現時点ではそのように見える。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:ダグラス・マレー『西洋の自死』第8章「警報を感じとっていた人々」