ポケットの中だけにとどまらない香港デモ騒乱

「ポケットの中の天安門」から30年。



逃亡犯条例撤回 「こいつら暴徒だわ」香港デモ隊の“醜い真実”をあえて書く | 文春オンライン
ということで少なくとも現状の本邦においては、香港騒動におけるニュースソースとしてはかなり参考になる(と個人的に思っている)安田峰俊さんの香港デモの身も蓋もない内実だそうで。
デモ側も、警官側も、どちらも好悪二面性を持っているという当たり前といえば当たり前なお話。
まぁ逆説的に意味しているのは、それを恣意的に報道するメディアというだけでなく、前回の通常日記でも少し書いた「解りやすいストーリー」を求め・流されやすい私たちマスな視聴者という構図でもあるのでしょう。

 特に8月以降の香港デモは、すでに逃亡犯条例改正案の撤回問題はもちろん、香港人自身の権利要求の場としての意味付けすら徐々に薄れはじめている。替わって顔をのぞかせているのは、米・英・欧の西側自由主義陣営と、香港政府の裏側にいる北京の中国政府とが、お互いに事実の隠蔽と印象操作を繰り返しながらメディアを使って殴り合う熾烈なプロパガンダ・ウォーだ。

逃亡犯条例撤回 「こいつら暴徒だわ」香港デモ隊の“醜い真実”をあえて書く | 文春オンライン

普遍的かつ古典的なマスメディアの振る舞いの一つではありますよね。画像の一部を切り取ることで、元が同じ写真でも被害者にも加害者にも見せることができてしまうマジック。
かつてあった天安門の時などのように、ネットが普及した現代世界ではもう「起きていること」それ自体を閉じ込めてはおけない。
――故に「弾圧される側」だけではなく「弾圧する側」も自身の正統性を象徴する絵や文脈を知らしめる必要性が生まれている。
30年でそこにあった非対称性はもう無くなってしまった。
その最先端の実例がこうして香港騒乱で私たちの前に現実の光景として表れていると。


今の香港は同時に、少し前までにはネットを通じた情報の自由化は政治的独裁体制を致命的に揺るがす(故に『歴史は終わる』)と素朴に信じられていたことへの反証としての存在しているのだとも思います。
少しでもそれに関心があるのであれば、香港の趨勢は、同時にリベラルな民主主義的価値観そのものの行く末までも考えざるをえなくなる。
しかしその一方で、この香港の騒乱は既に――というよりは最初から結末はほとんど決まり切っている構図でもあるわけでしょう。
だって北京の中国政府そのものがまさかこれで倒れるわけないもんね。
だから『アラブの春』にあったような夢想気味で無邪気すぎる楽観もここには当然ない。
むしろそこにあるのは悲劇的結末だという確信に近い諦観。
細かい点はともかく、大勢の結末としては最初から見えている以上、だからここで出てくる登場人物たちもどこか戯画めいた振る舞いになってくる。

 香港警察も各国メディアも必死で自分の仕事をおこなっており、勇武派も覚悟のうえで相当なリスクを負っている(隊列からはぐれて逮捕されたり、催涙弾などが直撃する危険もある)。だが、この場にいる全員が真面目に頑張っているにもかかわらず、どこかお仕着せのショーや茶番劇めいた感覚がつきまとう。

逃亡犯条例撤回 「こいつら暴徒だわ」香港デモ隊の“醜い真実”をあえて書く | 文春オンライン

香港でデモに参加する人たちが見せる悲壮な決意とは裏腹に生まれている、ある種の茶番劇めいた感覚というのはこうした諦観がもたらしているのだと思います。
まるで悲劇に出てくる登場人物を見るような感覚に。


リベラルな私たちはそうした香港をほとんど無力な観衆として眺めながらも、内心で冷たい感覚を覚えることになる。しかしだからこそ『醜い真実』であろうと目が離せない。
「2019年にもう一度きてください、ほんとうの民主主義を見せてやりますよ」 - maukitiの日記
トランプ大統領のような「内憂」だけではない*1)民主主義的価値観はいざというときいかに容易に突き崩されていくか、について他人事ではない悲観的な未来を暗示しているようで。
かくして、結末はほとんど確定しているにもかかわらず、しかし様々な思惑が絡み合うことで香港の戦いの「意味」だけは膨らんでいく。
現代世界の縮図の一つとして。



香港の戦いについて。
みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:日本の安倍さんもその範疇に入る人も居るかもしれない