「何か良いことをしたーい!」という私たちの心のスキマを埋めるもの

『気候正義』はそれを埋めてくれるだろうか?



『気候正義』の正しさの射程はどれくらい? - maukitiの日記
前回日記の続きというか、ここ数回続けてきた気候正義に関しての本題。
MIT Tech Review: 気候変動アクティビズムは世界を動かすか?
ということで最近は『気候正義』というのがリベラルな人たちのトレンドだそうで。
まぁグレタさんの演説の盛り上がりも、こうした背景があってこそ、という構図があることは間違いありませんよね。

9月23日にニューヨークで開催された国連気候行動サミットに先駆けて始まったグローバル気候ストライキは、最新かつ史上最大規模の運動であった。この気候変動アクティビズムは、強力な世界的ムーブメントになりつつある。

MIT Tech Review: 気候変動アクティビズムは世界を動かすか?

個人的に思うのはこれって――もちろん懐疑論は根強くありながらも――かなり隙の無い強力な『正義』だということであります。だからこそ、こうして世界的なムーブメントになるのも頷けるというか。
常日頃から「善き」人間でありたいと願う私たちが、堂々と、臆面もなく、大きな声で口にできるすばらしい正義。
それはここしばらくの『正義』『真理』の不在に悩んできた人たちにとって大きな福音でもあったのだろうなあと。



戦後ヨーロッパの大目標であったはずの「欧州連合」は、もちろん全てが失敗しているとは決して言えないものの、実際に蓋を開けてみればまぁご覧の有様であった。
自由主義」(とその普及)はアメリカがネオコンと共に見事にコケることでもう今更それを外交政策として口に出すことも出来なくなってしまった。
あるいは「民主主義」という面でも同様で、こちらはヨーロッパが称賛していた『アラブの春』は見事に失敗した。
挙句には中国の経済成長を目の当たりにした私たちは、最早リベラルな欧米政治家ですら中国に対して「民主主義を取り入れて我々のようになるべきだ」とは絶対に言わない。上記アメリカの失敗と併せて民主主義政治の普及だなんて彼ら彼女らはとうてい口にはできなくなっている。
戦後リベラルの核心的教義でもあった『人権思想』も――その中心にキリスト教的良心があったせいなのか――欧州の多文化社会化に伴うイスラム教的価値観と部分的にコンフリクトすることで、それを従来のように気軽に持ち出すことが不可能になった。もうそれは国内的にすら、あまり大きな声で堂々と掲げられる価値観ではなくなりつつある。


100年さかのぼれば、国民国家はあの大戦争と共に消失し、マルクスの夢から生まれた共産主義社会主義という私たち人間の不完全さを補うだろう完璧な社会システムを目指した努力は、しかしそれを生み出す私たち人間の不完全さによって当然の帰結として失敗した。
そして更に200年さかのぼれば、啓蒙思想を通じて『神』という存在すらも。


かくして「善き」人間であろうとする彼ら彼女らにとっては、現代社会ではもう堂々と掲げられる価値観ってほとんど残っていないんですよね。
そのどれもが穢れてしまった。
かつて無数に存在していた理想郷や夢や宗教や政治的イデオロギー、そのどれもが不完全なモノでしかなかった。あらかたの絶対的正義(とされていたもの)や普遍的価値観(とされていたもの)を試してみたものの、そのほとんどすべてが失敗した。
シャンタル・デルソル風に言うならば、ソ連崩壊を目の当たりにしたかのような喪失感。すべては幻想でしかなかった。
歴史は終わらなかった。
それはなにも欧州人たちの無能さや見る目のなさというわけではなく、たゆまぬ「理性」と「合理主義」の帰結として。


再び、それでもめげずに私たちは新たな理想郷を、夢を、正義を探し続けるべきなのか。
――あるいは何もかも諦め、全世界にむけて発信できる絶対的正義も普遍的価値観もない、今この時だけが楽しければいいだなんて刹那的な冷笑主義で生きていくのか。





ところぎっちょん、全人類には不幸なことに、そして一部の私たちには幸いなことに、地球がヤバいレベルの環境保護なムーブメントがやってきた。
地球がやばいということは、畢竟それは「善き」人間であろうとしてきた私たちが長年追い求めてきた全世界を射程に入れた革命的運動でもある可能性が高い。昔から外に敵が出来ると世界は団結するっていうのはあるあるな展開でもあるしね。
うーん、これには全世界の人たちも乗るしかないビッグウェーブだよね!
「みんな、ぼくたちの地球を守って!」といたいけな少女も叫ぶ!
これに乗らない奴は非国民! ――似ているのでまちがえました、同じ日本人として恥ずかしい!


『気候正義』は、神も絶対善も普遍的価値観も見失った私たちの、21世紀の「善き」人間でありたい私たちの新たな拠り所・指針となってくれるだろうか?
この多文化主義相対主義でいっぱいな現代世界において、何の憂いもなく堂々と公言できるという意味ではこれ以上ないほど稀有な、『正義』『普遍的価値観』『真理』として。


気候変動問題への取り組みが『正義』となった背景について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?