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変わっちまった悲しみは

なにのぞむなくねがふなく。


東京五輪への「旭日旗持ち込み」問題 新聞社説が“賛否両論”真っ二つに分かれた理由 | 文春オンライン
お客さん来襲でめんどくさくなりそうだったので、基本的にはスルーしてきた旭日旗ネタではありますけども、そろそろ適当なことを書いても許してくれそうな心の広い人しか残ってなさそうだし以下適当なお話。
でもまぁこのお話については専門家である木村完先生の論文『旭日旗問題に見る韓国ナショナリズムの新側面*1』を読もう、で概ね終わってしまうお話ではあるんですが。

決議は、五輪開催期間とその前後に、旭日旗のほか、旭日旗を描いたユニホームや応援グッズの競技場への搬入や、これらを用いた応援の禁止を求めるという内容だ。
また、国際社会に対して「旭日旗が持つ帝国主義的な意味を積極的に知らしめ、国際競技大会だけでなくすべての公式的な国際行事で旭日旗が使用されないよう、積極的な外交努力を注ぐこと」を韓国政府に促すとしている。
決議案は、出席議員199人中、賛成196人、棄権3人で通過した。

旭日旗の五輪会場持ち込み禁止を韓国国会が決議 すべての国際行事でも要求 - 産経ニュース

個人的にも今度の五輪でも「自粛」こそ(中短期的には)ベターな選択肢だとは思っていますけども、上記のように「要求」されたらまぁ安易に折れにくくなってしまうのも現実政治として理解できてしまうお話ではあります。
上記木村先生の論文の結論部分としては、旭日旗への反発は「具体性がない」故に着地点が無いまま拡大していくだろうとありましたけども、その拡大した先が韓国議会での圧倒的賛成による「すべての公式的な国際行事で旭日旗使用禁止」決議まできてしまうとは。




ともあれ、怒りが有頂天な人もあるいはアベウケイカ反対ムーヴな人もそれぞれ居て迂闊に触れると大変めんどくさい話題になってしまったこのお話ですけども、しかしこのお話って私たちの「過去認識」「歴史認識」について、とっても示唆的で解りやすく教えてくれるお話だとは個人的に思っているんですよね。
私たち人間にとって、過去は絶えず変化していくモノである――という普遍的なことを改めて教えてくれるよくできた教材として。
だからこの韓国社会の旭日旗への意識の変化について、それを受けての「昔はそうではなかった! おかしい!」という反発ってあんまり意味がないんですよね。
昔はそのように解釈されていなかった。今はそうした解釈が主流である。というだけ。
かつてはスルーされていたものが、あれよあれよと重大なシンボルに。



これは韓国社会特有というわけでも、あるいはそれが良いとか悪いとかじゃないんですよ。
なぜなら誰しも私たちの歴史認識・過去認識とは、時間と共に移り変っていくものなんだから。
アンリ・ベルグソン風に言うならば、私たちの記憶とは再解釈を繰り返す行為である、と。
私たちが過去を思い出す時、その重要性は「現在の」価値基準に影響を受けている。故に過去の歴史への認識は常に再構築されていく。過去とは不変でも不動でもなく、柔軟性に満ちている。私たちの意識にある過去は再形成を続けていく。
この繰り返され続ける記憶の再解釈というプロセスこそが、私たちヒトとサルを分けることになった能力の一つであるかもしれない。




中国の天安門事件の扱いや、あるいは今でもネタにされる旧ソ連時代にあった消えたトロツキーの写真*2など、共産主義政治の歴史改変を哂う私たちではありますが、あれって恥も外聞も捨てた(それをしてもゴリ押しできるだけの強権があることの裏返しでもある)ことを堂々とやっているだけで、私たちの記憶の認識や価値基準の変化という構図が身も蓋もなく表出しているに過ぎないんですよね。


ここで重要なのは、それこそ上記中国やソ連の歴史修正のように、こうした「変化」が必ずしも前向きでポジティブな変化であるとは限らないということでしょう。
――今回の韓国社会での旭日旗に対する変化がどちらであるかは、もちろんさて置くとして。
過去への認識が変化すること自体は普遍的にあることなんですよ。ちなみにこうした意識の変化がより起きやすいのは、地理的移動や社会階層移動が伴うと再解釈の度合いもそのように大きくなるそうで。まぁ本邦でもよくウザがられる「出羽守」なんかもこうした構図ですよね。


私たちは、悲しいことに歳をとっても必ずしも賢くなるわけではない。今日の歴史認識が、昨日の歴史認識に対して絶対的に優位なわけでもない。
私たちが子供の頃には価値あると信じてきたモノが、大人になるとまるで醒めた視線になってしまうように。
それを成熟と呼ぶか、老化と呼ぶべきか。
あるいは幼年期の終わりと呼ぶべきか。
だからこの変化をただ安易に「進歩」「進化」と呼んでしまうのはちょっと違うよね。まぁ「リベラル」なポジションとしては正しいのかもしれませんけど。


変化していく歴史『認識』について。
変わってしまったこと自体を責めても意味は無くて、変わってしまった韓国と私たちはどう付き合っていくのか、こそを考えるべきなのでしょう。まぁあちらはあちらで「変わってしまった日本」という構図でもあるのかもしれませんけど。
私たちは同じ認識のままではいられないのだから。




かといってもちろん僕にはこの旭日旗問題について何か銀の弾丸的な案があるわけでは絶対にないので、
みなさんはいかがお考えでしょうか?