故に「地獄とは他者のこと」である

私たちに出口はあるのかないのか。前回日記の続き的お話。




日赤「宇崎ちゃん」献血PRポスターは"過度に性的”か 騒動に火をつけた米国人男性に聞いてみた | 文春オンライン
『「宇崎ちゃんは遊びたい」の献血PRポスターはセクハラ』との批判と、それに関する議論 - Togetter
そういえば献血ルームのポスターネタで炎上していたそうで。まぁ良いのか悪いのか、この騒動で自分も久しぶりに行こうかなあと思う気持ちにはなったので炎上マーケティングとしては成功しているかもしれない。

 ポスターは、『宇崎ちゃんは遊びたい!』のキャラクター・宇崎ちゃんが、「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか~?」と呼びかけるもの。「ポスターに登場するキャラクターの描写が過度に性的では」と問題視する声がある一方で、「性的ではない」「表現を締め付けてはいけない」と擁護する声もある。

 議論に火をつけたのは、米国人男性のジェイ・アレンさん。街中で見つけたポスターをツイッター上に投稿したところ、瞬く間に拡散されたという。

日赤「宇崎ちゃん」献血PRポスターは"過度に性的”か 騒動に火をつけた米国人男性に聞いてみた | 文春オンライン

うーん、まぁ、そうねえ。いつもの揶揄コメントとしては前回の通常日記書いたので満足したとして、しかしまぁこの世の人間社会の不条理というか、まぁ私たちが避けては通れない現実の縮図だとは思うんですよね。あるいは前回日記の正義マンな人たちのまなざしなんかも。
(自称)進んだ人権意識を持つ人たちの「まなざし」を向けられてしまったことによる、帰結として。


ポスターとして公共の場に出ることで、宇崎ちゃんは最早日本のオタクだけのモノではなく、世界の彼ら彼女らのモノにもなってしまった。


だからこうした構図のお話ってまぁサルトルの「地獄とは他人のことだ」っぽいなあと。

それにしてもサルトルはなぜまなざしを向けられることを他有化と考えるのか。考えの筋道はこうです。私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。しかし他人がいるかぎり、そして他人が自由であるならば、私がこうした他有化を蒙(こうむ)るのは当然のことです。そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。

「地獄とは他人のことだ」──まなざしとしての他者との関係 | NHKテキストビュー


私たちが自由であろうとすればするほど、一方で「それは不自由であるべき」という幅は大きくなっていく。だって一方の自由と、もう一方の自由が相容れない構図は避けては通れないんだから。そこで当事者が多ければ多いほどその「まなざし」は増えていく。
いやあ一応は自由主義社会に生きている私たちが避けては通れない、自由権についての典型的なジレンマだよねえ。
――更に言えば、この問題ってグローバルで、多文化社会であろうとすればするほど複雑になっていくわけで。だからこそ、私たちが一応は範としている欧米社会でこの『自由』の問題が改めて最前線のテーマに浮上してきている。
それこそある表現について「性的か否か?」なんてまさに各文化のユニークさを決める中心的コードの一つでもある故に。



自由であるはずの私たちは、まさにこちらも自由である他者が介入=まなざしによって不自由が生まれるという、地獄。
サルトル先生はやっぱ偉大だよね。


それぞれの私たちの自由が生む地獄に、はたして出口はあるのか。
みなさんはいかがお考えでしょうか?