「(実名報道の重要性は)知ってるが、お前らの態度が気にくわない」

実名報道が許されるレベルに達していない、と思われている人たち。


【#実名報道】京アニ事件、届かなかった実名報道する「おことわり」 新聞社内 でどんな議論があったのか(京都新聞) - Yahoo!ニュース
【#実名報道】一人歩きした「遺族の意向」 心情をくむ難しさ 京アニ事件(京都新聞) - Yahoo!ニュース
【#実名報道】「ベタ記事」でも求められる判断 どう報じればー託された言葉の間で(京都新聞) - Yahoo!ニュース
未だに統一された意識・一貫したポジションに到達できていない新聞社の生みの苦しみがよく解るお話ではあるかなあ。
興味深い連載ではあります。
いやまぁ『今更』こうしたことを朝まで生討論していること自体が、「え? じゃあ今までってそうした社内議論を経ないで、何も考えずに実名報道でやってきたの???」という従来から批判されていたメディア自身の無自覚な杜撰さの存在について、また改めて証明してしまっているんですけど。

ここに挙げたのはほんの一例で、遺族取材と実名報道の間には幾つもジレンマがあり、記者たちの意見は時に対立した。京都新聞はお通夜や葬儀の取材を自粛するなど、遺族と信頼関係を築くために過剰な取材をしないことでは一致しても、現実の事件への対処で幾つも論点と課題が生じた。だがこうした社内議論を公開するだけでは 、読者には「傲慢だ」「言い訳に過ぎない」と映るだろう。どう説明し、日々の事件報道の中でどう実践するのか、答えが見えない。

なぜ、実名報道が大切だとメディアは考えているのか。その説明責任を果たしてきたのか。被害者側の匿名要請と警察サイドの匿名発表は、「異例」から「時代の流れ」になるか、岐路にある。事件発生から40日後に京都府警は、遺族からの「匿名の意向」を付けて犠牲者全員の実名を公表したとはいえ、実名報道に社会の広い理解が得られず、批判されていることに変わりはない。

【#実名報道】一人歩きした「遺族の意向」 心情をくむ難しさ 京アニ事件(京都新聞) - Yahoo!ニュース

自分たちがどれだけ言葉を尽くし――まさに彼ら彼女ら自身が大好きな『説明責任』をはたしても――結局のところ、私たちからそこまで広い理解は得られていない、という自覚を持つようになったのは良いことなんじゃないでしょうか。
上から目線で、監視されることもほとんどない無邪気な「第四の権力者」として振る舞い、正義の名の下に多くの人たちを断罪してきた過去に比べたら。
もちろん被害者たちは、あるいは未来の被害者になるかもしれないと恐れる人たちは、ただそうした自覚を持っただけで内心の反発を解消してくれるかというと、まぁまったくそんなこと絶対ないわけですけど。


この「実名報道の是非」というテーマに限った話ではありませんが、社会にあるマスメディアへの不満と、それと対応するメディア自身の不作為(のように見られる)という構図がヤバいのはほとんどそのまま政治問題と直結するからでもあるわけでしょう。
まさに『社会の木鐸』が機能不全になるように。
――個人的には新聞にはその役割があるとは思っていますけども、しかし、だからといって、その事実が彼ら自身の能力の証明とイコールになるわけでは絶対にない。
能力が無いくせに、その重要過ぎる役割を担っていたら、それこそ何もしない方がマシだと言われてもしかたない。
「無能な働き者ならば、いっそはじめからいない方がマシだ」なんて。


よく独裁的傾向を持つ政権を批判する文脈から「マスメディアを検閲し言論弾圧している!」というお話があったりして、確かに世界を見渡せばそういう事態が無いとは絶対に言えない。
それこそトランプ政権――あるいは実際に本邦の安倍政権がそうしているかはまた別の議論として――なんかを見れば解るように。
ただその構図を説明するのって、ただ悪意ある政治家たち、それだけでは不十分なんですよね。
現代民主主義社会においては、その「ポピュリズムな政権」「既存メディアへの常態化の不満」両者の共謀によってこそ、メディアの萎縮が起きるわけですよ。
そのどちらが欠けても実現しない。
皮肉にも「少なくない有権者たちの素朴な願いを背景にした」政治家たちの企みによって、メディアの自由は失われていく。
「愚かなマスコミたちを罰してほしーい!」という私たちの素朴で無邪気な願いと共に。
かくしてトランプのような政治家を待ち望む有権者たち。


今回の京アニ事件の実名報道騒動でも確実にそうした『願い』の総量は増加し、メディアの自由が規制される未来にまた一歩近づいたと思うよ。
その背景や文脈を理解しようとせずに、政治家たちの振る舞いだけを批判してみてもまったく事態の好転にはつながらないどころか、むしろそうした振る舞いそれ自体が、より『強硬な規制』を望む声が増えていく。
うーん、マッチポンプかな?




既に指摘されているように、そうした燃料となるメディアへの不満としては、誤報の際の対応や、あるいは被害者実名報道をメディアの使命とする一方で、同時にまた新聞記事で「記者名なし」が多いこともあったりしますけども。
個人的にはそれよりも、新聞記者のみなさんのtwitterのbio欄に書いてある「発言は個人の見解で、〇〇新聞社の見解ではありません」とエクスキューズしているのが心の底からそびえたつクソだとは思っているんですけど。
普段、不適切発言があるとすーぐ所属組織や企業に突撃するくせに、自分たちはそうやって予防線を張っているのってムシがいいというか、上記「公正でない」「非対称な関係」への不満の典型的一例だと思ってます。





日本に限らずほとんどどこの国でも一般化した、こうしたマスメディアへの常態化した不満や鬱屈は、今後解消されていくことがあるだろうか?
――まぁそうならなければ「反メディア」を敢えてポジションするトランプさんのような政治家たちの登場を許すことになるんですけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?