高度に発達した自由民主主義社会のジレンマは、政治が無能な社会と区別がつかない

結果はどっちも一緒だろとか身も蓋もないこと言わない。



燃え上がれ、オレたちの小正義! - maukitiの日記
ということで先日書いた日記はいつものように「皮肉で愉快なニュースだよね」というだけで終わらせようと思っていたんですが、
※ただしオレは除く。 - afurikamaimaiのブログ
afurikamaimaiさんから言及をいただいてしまったので、折角だしもう少しだけ適当日記。



ロンドン南部で男に刺され3人負傷 仮釈放中の容疑者を射殺 - BBCニュース
前回の通常日記でも少し触れたましたけども、私たち日本社会が「コロナの検査拒否」をした人に何もできなかった、というのは基本的には上記イギリスのそれと同様だと思うんですよね。

ジョンソン首相は、「テロ罪で有罪となった者に対応する仕組みを根本的に変更」するため追加計画を3日に発表すると述べた。

昨年11月末にロンドン橋近くでテロ罪で仮釈放中の元受刑者が無差別殺傷事件を起こして以来、政府は刑期の延長や警察予算拡大など、テロ対策強化に速やかに動いたと、首相は説明した。

BBCのクリス・メイソン政治編集委員によると、アマン容疑者は仮釈放時点で、市民に危害を加える危険が懸念されていたが、収監を継続するための法的仕組みがなかったという。

ロンドン南部で男に刺され3人負傷 仮釈放中の容疑者を射殺 - BBCニュース

イギリスの「収監を継続するための法的仕組みがなかった」と、私たち日本の「説得したが、法的拘束力がない」。
まぁやっぱりリベラルな民主主義社会であればこそ、どこでも持っているジレンマであり葛藤でしょう。
「感染症の前に、民主主義は立ちすくむ」か - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
この構図について、gryphon先生のところのタイトルを借りるなら、
「そこで立ちすくんでこそ、民主主義である」と。
いやまあ「日本の政治家の人そこまで考えてないと思うよ」と真顔で突っ込まれそうですけど。


政治哲学では主要テーマでもある、「政治と自由」が本質的には矛盾がありトレードオフであるように、今回のような「自由と安全」も概ね同様なんですよね。
だからこそ『平等』を重視する社会主義諸国は、どこでも個人の経済的自由を制限する方向に舵を切らざるをえないわけでしょう。
そして『安全』を重視しようとするのもまた同様である。
かの悪名高き『愛国者法』を皮切りに始まり、結果として欧米諸国の大多数が21世紀から直面するようになったテロ対策とリベラルな社会のジレンマってまぁそういうお話でもあるわけで。


「検査拒否」に対する法的拘束力が無い。
――何故やらないのか? 
既に言われているように、それこそSARSの頃から言われていたように今回のコロナの件においても、本当に議論せねばならない本丸はここでしょう。
ところがこのお話が本邦ではまぁ愉快な百家争鳴状態になるのは、その原因についての認識が上記タイトルのような構図になって混沌となるから、だとは思うんですよね。
「高度に発達した自由民主主義社会のジレンマは、政治が無能な社会と区別がつかない」
はたしてそれは、私たちが個人の自由を制限する法整備に慎重になっているからなのか、それともただただ都合が悪くめんどうな問題から見て見ぬフリを続けて逃げているだけなのか。
まぁどっちもそれなりにまとをいているとぼくはおもうよ。



ちなみに、ここでなぜ「法的仕組み」が私たちにとって重要な議論テーマなのかは、もちろんその個人の自由を制限することで達成できる目標の重要さもあるんですけれども、同時にまた政治権力の暴走を防ぐという意味もあるわけですよ。
個人の自由を制限する法的仕組みは、同時にその自由を制限しようとする政治権力の効力の限界をも定義することになる。
この辺はafurikamaimaiさんが「故にこの問題は放置されている」と指摘していましたけども、

全体最適を考え、個人を制限する「法を持ってしまう」ってことはだ。

例外が許されなくなるわけですよ。

そうなると、強い人間が「その制限から俺は除かれる」みたいな振る舞いをするのに都合が悪いすぎる。

※ただしオレは除く。 - afurikamaimaiのブログ

かくして、その強さの頂点にある政治権力の濫用を防止するために『法の支配』が必要である、とされてきたわけでしょう。
法的根拠があることまでしかできないように。その圧倒的なパワーをもつ強制力の使用を制限する為に。
だからそこでめんどうな法的仕組みではなく、「緊急事態だから」というより簡単な理屈を持ち出してしまうのは、まぁ権力者たちにとってただ法を作るよりもずっと都合がいいわけですよ。
柔軟で迅速な対応が期待できる一方で、法的根拠が無い故にそこでの権力行使に伴う個人の自由の制限がやり放題になってしまうから。


故に回りくどくても法的仕組みは重要である。Q.E.D.
私たちの安全を守るためだけなく、権力の暴走を防ぐためにも。



【新型コロナ】チャーター便で帰国後、検査拒否の男は「自由意志やろ!」と叫んだ(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
私たちは「個人の選択の自由」と「公衆衛生や治安維持など社会の安全」のバランスを、一体どのように採るべきなのか?
この問題が難しい、どころか人類社会において永遠に続きかねない政治テーマであるのは、本質的にこのバランス調整が事実上『完璧な解答』というのが存在しないからでしょう。
例えばある国における基準を、そのまま別の国で同じようやっても上手くいかないように*1
それどころか同じ国や社会においてすらも『時代性』や『環境』によってその基準は刻々と移り変わっていく。
ぶっちゃけ今回のことだってただ日本の政治家の不作為というだけでなく、SARSの時のように終息して数年したらみんな忘れてるよね。
それはつまり、私たち日本人が社会に求める自由と安全のバランスの基準が変化するということでもある。


そうやって逆説的に「答えのなさ」が、今の日本社会のように答えを先送りするインセンティブになっているのは、やっぱりクッソ愉快でハラショーなお話だとは個人的に思っていますけども。


2020年というこの時代に生きる私たち日本人は、個人の自由と社会の安全のどちらをどれだけ優先し、そしてその為の権力行使をどれだけ容認すべきと考えているだろうか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:ここが欧州連合が越えなければいけない高いハードルでもある。