現代政治家たちはSNS上でフェイクニュースだと歌う

 「フェイクニュース・・。」・・・またか、とインテリなアタシは思った。
シカトするつもりだったけど、チラっと大臣の男の顔を見た。
「・・!!」
 ・・・チガウ・・・今までの政治家とはなにかが決定的に違う。
スピリチュアルな感覚がアタシのカラダを駆け巡った・・。
「・・(トランプっぽい・・!!・・これって運命・・?)」





河野太郎防衛大臣「フェイクニュース。」ツイートの“本当の怖さ” | 文春オンライン
うーん、まぁ、そうねえ。
なつかしのガラケー小説時代を思い出させるユニークな文章力については、まぁ当日記もまったく人のことが言えないのでお口チャックしておくとして。
しかし話の本題としては結構面白く、少し考えてみる価値あるお話だとは思うんですよね。

皮肉にも配備の候補地を報じたのも、それが断念されると報じたのも読売のスクープだったわけだ。

 しかし河野氏はこれをフェイクニュースとツイートした。

 巧妙だと思う。そりゃ、まだ水面下で動いてる時点だろうし、何より公式には発表してないから。

 なので将来もしイージス・アショア断念を正式に発表する際も「あの時点ではそんな事実はなかった。フェイクニュースだった」と言うのではないか? と、私は失礼ながら考えていた。

 そしてきのう、河野太郎防衛相は「イージス・アショア」の配備計画を停止すると表明した。読売の報道はやはりフェイクニュースではなかったのである。

河野太郎防衛大臣「フェイクニュース。」ツイートの“本当の怖さ” | 文春オンライン

フェイクニュースというレッテルの乱用、というのはまぁ当日記でもわりかし(露悪的ながら)やっているので耳の痛いお話ではあります。
通常日記 - maukitiの日記
先月あったこのイージス秋田断念ニュースも当日記で言及し、割とエクスキューズしながらも「すわフェイクニュースか!」的に取り上げてもいたわけだし。反省反省。


こうしたその時点では検証のしようのないニュース(故に当事者の発言が重要視される)や、何でもない誤報、あるいはそもそもフェイクするレベルにすら達していない何も調べていないようなクソ記事に対してもなんでもかんでも「フェイクニュースや!」というのはフェアではない、という指摘は既に結構あって、まぁ概ねその通りでもあるんですよね。
それは単に、何でもフェイクニュースとレッテルを貼って信頼性を下げようとする不誠実な行為というだけでなく、同時にまた本当に「フェイクしているニュース」への批判の説得力を失いかねない振る舞いでもある。



ただ、私たちが忘れてはいけない大前提としてはあるのは、何もこうした気に入らない報道に対して「フェイクニュース」と呼ぶ行為をトランプが発明したわけでは絶対にない、という点でしょう。
――まず人びとの間に広く共有された(本場のあちらではリベラルメディアへの)マスコミ不信があって、その上でそうした人々の鬱屈を雑に代弁するトランプさんが支持されたわけで。


少なくともトランプは一部大衆たちの思いを率直に代弁している。
本邦日本だって構図は――アメリカほど進んでいないにしても――似たようなものでしょう。
故に河野大臣のああした振る舞いが少なからず支持されてもいる。
「朝日毎日はフェイクニュースばかりだ!」と怒るネトウヨたちの反対側には、リベラルな人たちの「産経読売はフェイクニュースばかりだ!」と怒りがある。
それこそNHKなんて、一方では反日報道だと怒られながら、また一方では政権の言いなりだって怒られているまぁ愉快すぎる状況でもあるわけでしょう。
つまり、マスコミはみ~んな嘘つきなんだ!
以前も日記で少し書きましたけど、その意味ではやっぱり「マスコミ不信」って珍しく政治的左右のポジションを問わない広く共有されているテーマでもあるんですよね。

いやまあ、現代社会のトレンドでもあるマスコミ不信な皆さんからすると、いいぞもっとやれな構図なのかもしれないね。
ここで面白いのは、所謂典型的な政治ポジションである、右も左もこの点では手を握ることができる、という点でもある。それこそ右寄りや左寄りというメディアに対してそれぞれ都合のいいように相手を叩くことができるだけだし。
絶対無謬のメディアなんてあるはずもないのだからそこを責めても不毛だという冷静な意見には頷くしかないんですけど。
しかし、だからこそ「反マスコミ」感情は、より多くの私たちを射程に含む、かなり大きなトレンドとなる可能性を秘めている。
世界は「エビデンス? ねーよそんなもん」への反発で一つになれる。

二兎を追わんとする人たちの陥穽が生むモノ - maukitiの日記

となれば選挙に勝つために政治家たちがやること言えば……。


簡単にフェイクニュースというレッテルを貼ってしまう危険な政治家たち。
その指摘には個人的にも概ね同意します。
そして、河野さんが「上手い(故に恐ろしい)」という指摘にも。

しかし、感情を誘導する使い方は非常に危険だ。
公人だろうが私人だろうが簡単に「フェイクニュース」と言ってしまう人を私は警戒する。

河野太郎防衛大臣「フェイクニュース。」ツイートの“本当の怖さ” | 文春オンライン

しかしその背後には、そうした言動をよくぞ代弁してくれたと歓迎する、かなり大きなボリュームである私たち有権者の存在がある、という点を指摘しないのはこちらもフェアではないと思います。
まさにそうしたメディアの「報道しない自由」などを建前にした欺瞞行為が、上記のようなフェイクニュースと言ってしまうような人たちが支持される土壌でもある、メディア不信というトレンドを生んできているはずなのにね。


さて、こうしたことを考えた上で、本当に私たちが恐れるべきなのは一体なんなのでしょうね?

  • フェイクニュースだというレッテルをを悪用する狡猾な政治家たち?
  • それともそうした政治家を支持してしまう私たち愚かな有権者たちの鬱屈?

僕は一方だけに言及しても何も変わらないとは思っていますけど。


フェイクニュースだ!」と言えてしまう政治家が支持されるようになった、民主主義社会におけるトレンドについて。
みなさんはいかがお考えでしょうか?