「いま、われわれはれいせいさをかこうとしてします」

「われわれはかしこくないので」SNSも規制すべきなのだろうか?



Facebook上のヘイトスピーチがエチオピアで大虐殺を招きつつある - GIGAZINE
以前あった基本オプティミストな当日記のポジションとしては概ね「SNS規制はできるならばしない方がいい」という辺りだったんですが、最近では少し考え方が変わりつつあるかもしれない、と個人的に考えているところではあるんですよねえ。
われわれはかしこくないので - maukitiの日記
先日に上記日記を書いたことで言語化できたと思うんですが、つまるところ「われわれはかしこくないので」という視点に立つならば、『規制』は必要だと認めざるを得なくなってしまうんですよね。
そのバカの存在を前提に考えるならば、確かに我々にはSNSを自由に無制限につかわせるのはむつかしい。
――まぁそうしたポジションって、中国政府のような独裁者たちがネット規制をする大義名分、ほとんどそのまんまでもあるんですけど。
実際、本邦でもバカな人たちがバカなことを言ってリアル警察のお世話になっているように、厳罰化もしくは規制というのが現代のトレンドという形でほとんど固まりつつある。

 

生涯を通してオロモ人の権利擁護を歌い続けた歌手のハチャル・フンデッサ氏が暗殺されたことを受けて、エチオピアでは民族的対立が激化しています。Facebook上にはデモや暴動、差別を助長する投稿が多数書き込まれており、Facebookは「大虐殺を招いている」と非難されています。

Facebook上のヘイトスピーチがエチオピアで大虐殺を招きつつある - GIGAZINE

こうしたネットで憎悪を煽る手法において、現在の状況が歴史的に見て画期的なのはそのコストの圧倒的な「安さ」でもあるんですよね。
長年「かしこくない」我々と共にあった憎悪扇動は、決して今に始まったわけじゃない。かつては多くの人にそのメッセージを届けようとするには、かなりハードルが高かったわけでしょう。
ところが、今はそうではない。
ネットに接続できることが基本的人権という次元に近づきつつある現代世界において、皮肉にもその容易さがほとんどそのままヘイトサイトSNSへの投稿を目にすることの容易さに繋がってしまっている。
ビル・ゲイツ氏、「ワクチンのためにもっと協力を」 陰謀論にも言及 - BBCニュース
そして、その功労者の一人でもあろうゲイツさんがそうした構図に苦しめられているというのは、ホントよくできた寓話にすら見えてしまうよねえ。
ゲイツさんの言葉を借りるなら、悲しいかな「全ての人がSNSを上手く利用できるような準備を整えていない」という現代世界。
「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」
2000年にあった2ch時代からまるで成長していない私たち。
いや、たかだか20年でヒトが成長するはずもないという言うべきか。




ちなみに、こうして煽られた『憎悪』が現実社会に噴出してしまうのも、やっぱりその容易さがかなり大きな要因を占めることにもなるんですよね。
それが地球の裏側の話であれば幾らバカな人たちでも直接危害を加えようと考えるのにはかなりハードルが高いし、外国でも同様でしょう。
しかし、それが同じ国、同じ地域、なんなら近所にそうした人たちが住んでいるとすれば……。
フェイスブックはミャンマーで憎悪煽る「けだものになった」=国連報告 - BBCニュース
今回のエチオピアも、以前あったミャンマーも、そして現在のアメリカやヨーロッパでも、単純にSNS上の扇動というだけでなく結局はこの実際の居住地域の近接性が、実際に行動に移すことの最後の分かれ目なんですよね。
どれだけ突撃しやすい所に標的がいるか否か。
簡単にレッテルを貼れてしまうような歴史的文脈がある人びとが、近くに住んでいるとより悲劇的な事件が起きるハードルが低くなる。



そう考えると、やはり行動に移すことのハードルを上げることが「かしこくないわれわれ」の答えとなってしまうのかなあと少し悲観してしまうんですよねえ。
ネットに接続することにしても、あるいは離れて住む、にしても。
まぁそうやって「かしこくない人たち」の為になるからと、父権主義的に自由を制限したりすることが一般的になってしまうと、やっぱり前回の日記でも書いたようにいつか見た独裁者しぐさになってしまうとも思うんですけども。
我々はそのバランスを一体どのように決めればいいんでしょうね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?