「知ったこっちゃないね!」戦争を容認化させるソーシャルメディア

情報溢れる現代社会でこそ、より可視化される私たちの不作為。





SNSで揺らぐ平和意識 戦争容認、簡単に「いいね」  :日本経済新聞
なんか割と盛り上がってたみんな大好きヒトラー談義。は~なるほど~。

「いくらユダヤ人を殺したと言われていても、ヒトラーにも人の心があった」。6月、ユダヤ人の大量虐殺を命じたヒトラーが、実は優しい心を持っていたなどとする文章が、ヒトラーと少女が笑顔で写った写真とともにツイッターに投稿された。

ヒトラーさんへの好感度が上がった」「ユダヤ人迫害には別の黒幕がいたのかな」などと同調する反応も多く、一連の投稿に計1万3千近い「いいね」が付いた。

投稿したのは東北在住の10代男性。「ヒトラー=悪」という常識に疑問を投げかけたかったという。元ネタになった記事はニュースサイトで読んだといい「戦争から75年。今までの視点をずらし、当時の人物を評価していくことが重要ではないか」と話す。

専門家は「安易で短絡的だ」と手厳しい。「大衆が支えたナチズム体制下の出来事を個人的で心温まる物語に矮小(わいしょう)化している」と批判するのは衣笠太朗秀明大助教(ドイツ・ポーランド近現代史)。「ごく一部の事例を普遍化して再評価を促す非常に危険な投稿だ」と語る。

SNSで揺らぐ平和意識 戦争容認、簡単に「いいね」  :日本経済新聞

ぼくは、す~ぐ『ヒトラー』という言葉を使って相手を批判しようとする、「安易で短絡的な」議論方法がこうしたヒトラー評価見直し()をしてしまうバカな空気を生んでしまったと思うよ。


現代社会における民主主義政治家は、どうやっても彼と同じレベルの所業を行うことなんて不可能でしょう。
――それは単純に僕の政治家への信頼というよりは、幾ら歴史を終わらせられなかった現代に生きる我々大衆でもさすがにそこまでバカなではさせない、という大衆の知性への最低限の信頼感でもあります。


こうしたヒトラー議論でしばしば引用される、有名な『ゴドウィンの法則』のそもそもの意味もそういうことなんですよね。
別に誰かをヒトラー呼ばわりすること自体が悪いのではなく、しばしば、結果としてヒトラーの評価を相対的に向上させてしまうから。

ゴドウィンの法則は誤謬の告発を旨としているものではなく、不適切で誇張された対比の発生率を下げるためのミーム的な道具として作られた。ゴドウィンは「あえて自然法則や数学法則のような表現にしてはいるが、この法則は常に修辞上・教育上の目的のためのものだ。要するに自分は、誰かを安易にヒトラーになぞらえる軽薄な連中に、もう少し真面目にホロコーストのことを考えてほしかったのだ」と書いている[7]。

ゴドウィンの法則 - Wikipedia

ヒトラーの悪行について真面目に考えていない」ことの証左にしかなっていない――故にクソである。
本邦でも散々安倍前首相が、安易で、短絡的で、矮小な人たちが何も考えずにヒトラー呼ばわりしていましたけども、ああした言説こそが安倍さんの様々な悪行――もちろんそれが無いとは絶対に言えない――と同じレベルでヒトラーのそれを見るような空気を生むようになったんじゃないかと。
んなもん同じレベルにあるはずないのにね。
安易で短絡的にアベさんをヒトラーと呼んでいた人たちこそ、結果としてヒトラーの罪を矮小化し評価見直しの空気を生んでいる。
まぁしかたないよね。そうした迂遠な副作用なんてどうでもよくて、今この瞬間に権力に立ち向かっている自分たちが気持ちよくなりたいだけなんだもんね。






ともあれ、まぁ相手の主張を批判するだけじゃ生産性が無いので、関連してではなぜ「戦争容認」という空気が生まれるのかというと、最近のアゼルバイジャンアルメニアの日記でもよく言及している「(国際社会=)我々の不作為」がそれをしているのではないでしょうか。
看過されるシリアの犠牲の大きさは、同時に私たち自身の平和と安寧の重みである - maukitiの日記
アジアの平和(笑) - maukitiの日記
「戦争忌避という良心が、また新たな戦争を呼ぶ」お馴染みの悲劇 - maukitiの日記
パリで死ぬ命は、シリアで死ぬ命よりも1000倍くらいは重い - maukitiの日記
無抵抗主義者が戦争への道を舗装するとき - maukitiの日記
「国際社会が黙ってないぜ!」の顛末 2020Remix - maukitiの日記
当日記の頻出テーマでありシリアの時からしつこく書いてきましたけども、自分たちさえ平和であればいい、というとても一国主義者でナショナリストらしい主張を持っている人たちは別にいいんですよ。
「自分たちさえ平和を享受できればそれでいい!」
それはそれで勘案すべき一つの価値観でもある。実際に私たち日本人が模範としてきたヨーロッパも、ユーゴスラビアから始まりシリアやリビアなど、何度も痛い目に遭い続けてきたわけだしね。
戦争をするのは簡単でも平和を取り戻すことはひたすら難しい。
だったら自分たちの平和さえ維持できればそれでいいというのは、やっぱり合理的だというしかない。


でも、曲がりなりにもリベラルな立場から『世界平和』を訴えるのであれば、そこで「他者の戦争も許さない」という態度が重要であるわけでしょう。
――で、実際に、私たちは、他者の戦争に対して、それをしているの???
その意味で言えば、確かに「アメリカの戦争」にも反対し抗議していた人たちは一貫性があると評価するしかない。
一昔前にイラクアフガニスタンまで行ってそれをしていた人たちは、賛成するかはともかく、平和運動家としてとても誠実ではあると思うんですよね。


その一方で、私たち日本社会は一体どのような行動を採ったのだろうか? 
現地で平和を乱す現状打破主義者たちに、どのような強い態度を採るべきだと政治家に要求したのだろうか?

  • シリアでは?
  • クリミアでは?
  • イエメンでは?
  • そして、たった今まさに戦争をしているナゴルノカラバフでは?

少なくとも僕が見てきた世界線では「余計なことにクビを突っ込むな!」という政治的意見が主流だったように思えるなあ。
そうだよね。自分たちが平和でさえあればいいもんね。


……確かに私たち日本人の主流意見としては「(他者の)戦争を容認している」と言うしかない。
皮肉にもより世界が狭くなった結果として、戦争報道なニュースが溢れることで、私たちの不作為は可視化され強固なポジションになりつつある。
それは何も日本がアメリカの戦争に巻き込まれているとかそういう話ですらなく、むしろ世界の戦争状態に無関心で事実上容認している我々国際社会の態度こそが。
最近の若者に特有の空気感という話ですらなく、社会の世論を左右している我々の大人の態度こそが。
不作為というカタチで。

教育現場からも不安の声が上がっている。「戦争は絶対悪という意識が薄らいでいる」。千葉県の公立高校で公民科目を教える50代の男性教諭は、最近の生徒の印象をこう語る。

SNSで揺らぐ平和意識 戦争容認、簡単に「いいね」  :日本経済新聞

「絶対悪」って言っておきながら、現実の世界で行われている戦争に見て見ぬフリを続ける、ひたすら一国主義で合理的な私たち。
若者だってそらそうなるよ。
ならないわけないよね。


本気で自分たちの不作為を解っていないのか、それとも実際には自分たちさえ平和であればそれでいいと思っているのか。
上記の男性教諭は一体どう考えているんでしょうね?





揺らぐ平和意識、戦争容認、あるいはヒトラー再評価な空気について。
一国主義者やナショナリストなみなさんは別にいいとして、平和を愛するリベラルなみなさんはいかがお考えでしょうか?