個人主義のおわり?

気候変動やコロナ危機は我々に集団主義を思い出させてくれるだろうか。



気候危機とグレタと資本主義 若き経済思想家が説く新しい「脱成長」論 | 欧州ニュースアラカルト | 八田浩輔 | 毎日新聞「政治プレミア」
「脱成長」を目指すのかはともかくとして、しかし現状認識としてはかなり近い所にあるかなあ。

 ――新型コロナウイルスで打撃を受けた経済の再生と気候変動問題の両立を目指す「グリーン・リカバリー」(緑の復興)の動きが欧州を中心に広がっています。しかし、新刊では持続可能な社会への移行をビジネスチャンスとみなす「緑の経済成長」戦略について批判の対象にされています。なぜですか。

 ◆経済成長を続ければ技術が発展し、イノベーションが促進され、魔法のような技術が現れて、私たちは自らの生活を特段大きく変えることなく、あらゆる問題を解決できる――。それは幻想です。

 気候変動を安全と思われる許容範囲にとどめるには、世界の二酸化炭素の排出量を2030年までに半分にして、50年までには実質ゼロにしなければいけません。今までの経済成長が化石燃料に依存してきたことを考えれば、あと数十年ほどで、経済成長を続けながら二酸化炭素排出の絶対量を減らす「デカップリング」(切り離し)が十分に実現できるとは思えません。

気候危機とグレタと資本主義 若き経済思想家が説く新しい「脱成長」論 | 欧州ニュースアラカルト | 八田浩輔 | 毎日新聞「政治プレミア」

上記著者は否定的に見ていますけども、個人的にはデカップリングが実現できるかというと、まぁそれなりに実現性はあると思っているんですよね。
――私たちが『個人の幸福追求』という大前提を捨てることができれば。
そもそも何で資本主義が資源枯渇や環境破壊を招いてしまうかって、そりゃ我々が資本主義を通じて*1無限に幸福を追求しようとするからでしょう。
資本主義は手段であって目的ではない。
啓蒙思想から生まれ欧米的価値観と共に我々に深く根付いた個人主義は、集団ではなく個人の幸福追求を最大化させる、そんな権利を至上としてしまうからこそ負の外部性も大きくなっていってしまうわけで。


つまり、私たちが自身の幸福追求を二の次にさえすれば、デカップリングを実現できる可能性はある。
かんたんなことだよね!


字幕:グレタさんがEUに訴え、温室効果ガス削減に「できる限り手を尽くして」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
個人的なポジションとして、いつもの野次馬根性を越えて「グレタ・トゥンベリさん」ネタをちょくちょく日記にしているのは、そうした背景があるわけですよ。
彼女が「変えろ!」と怒っていることってただ環境保護運動という面を越えて、現代世界に暮らす我々の大前提としてある個人主義的な『幸福追求』をやめろと言っていることに等しいから。
彼女に反発する人たちは少なくありませんけども、でも実はそうした少女如きにと怒る権威主義なオジサンがいかにも好きそうな集団主義の論理こそを彼女は求めているんですよね。
彼女を批判する人たちだけでなく、支持する人たちもその先にある集団主義な社会像についてあんまり解ってなさそうではありますけど。


より大きな社会の利益を実現するために、個人の幸福追求の主要手段であった資本主義を管理する世界へ。
資本主義の活動は、集産主義的に管理されるべきである。
むしろ、自分の共同体のために協力しないなんて非国民なのでは???
個人主義のおわり。






ここで面白い偶然というべきか、まさに今我々が直面している『コロナ危機』ってそうした集団主義的な論理を私たちに強要する面がかなりある、という点だと思うんですよね。
「マスク着用など行動変化を嫌う個人主義的なヨーロッパ」っていうのも、まぁそういう傾向から導かれているわけで。
何故個人の幸福=自由な行動やマスク無しの快適な生活を諦めてまで、集団の利益を優先させなければならないのだ、なんて。
欧州の都市から再び人が消えた 新型ウイルスで夜間外出禁止相次ぐ - BBCニュース
まぁそれで痛い目に遭いまくっているわけですけど。
その意味でいうと、単にコロナによる経済危機で二酸化炭素排出が縮小されたという直接的な面だけでなく、個人主義よりも集団主義が優先されるようになりつつある、という点でこそコロナはグレタさんにとっての福音になっていると思うんですよね。


コロナによって、我々は否応なく集団主義の論理を思い出しつつある。



このまま個人の幸福追求を第一とする個人主義が終わり、我々は「個人よりも集団の目的を優先する」集団主義への道程を歩むことになるのだろうか?
――グレタさんが言っていることって(解っているのかいないのか本人は直接口には出しませんけど)結局そういうことなんですよね。
そしてそれは、単純に環境運動という枠組みを超えた、我々の文化や社会や哲学についての重要なテーマでもある。




気候変動やコロナを経た我々は「社会のために」という大目標達成の為に、資本主義による個人の幸福追求は脇において置くべきなのだろうか?
そしてそれは少なくとも現状において、ある程度まで合理的であるという評価を下す他ないように見える。
まぁ割と私たち日本人には受け入れやすい論理ではあるかもしれないよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

 
 

*1:もちろん「資本主義を通じずに」それを追求する道もあるんだけれども、より中立的な価値観として「カネこそすべて」という道を選んだ現代社会ではそれはかなりむつかしくなっている。この辺を書くと日記が三倍以上に長くなってしまうのでここは割愛。