間接民主制は、我々の内心にある「フルボッコ社会」を押しとどめることはできるだろうか。
「俺も謝罪会見するのかな…」銀杏BOYZ・峯田和伸が語るフルボッコ社会への違和感
個人的なポジションとしてはかなり近い所にはあるので割と同意できるお話ではあるんですけども、
――なるほど。投げつけるより、置いておいて見にきてもらうと。
Twitterとか見てると、みんなひとつの方向に流れちゃうでしょ。
たとえば「政治家のここが問題だ、ひどい、辞めろ!」とかさ。「いいね、いいね!」「みんなが言ってるんだから、そりゃそうだ」って何の疑問も持たずに。
悪いことは悪いけど、その中で「ん?どうなの、これ」っていうこともあるかもしれない。だけど、そういうことも考えないうちに、ダーッと一方向に流されちゃうじゃん。
ヒトラー生むよね、このままいったら。怖いなと思うよ。
「俺も謝罪会見するのかな…」銀杏BOYZ・峯田和伸が語るフルボッコ社会への違和感
いつものヒトラーネタが出てきてガッカリ。
ともあれ、「みんなひとつの方向に流れちゃうでしょ」というのは、ある意味で私たちが愛する民主主義社会の本質でもあるんですよね。
――多数派が「嫌い」「むかつく」という意見で一致しているならば、少数派の人間に権利などない!
それこそその始祖であろう古代ギリシャでは、支持を失った人物は民衆によって都市を追放されるか処刑されるのが普通だったわけだし。
2500年以上前から何も成長していない私たち。
あとさ「謝れ!」みたいな風潮、あるじゃん。
――謝罪会見がエンターテインメントみたいになってるんでしょうね。
「別にいいじゃん、そんなの。お前から言われなくたって」って、思うよね。
「俺も謝罪会見するのかな…」銀杏BOYZ・峯田和伸が語るフルボッコ社会への違和感
タイトルに「フルボッコ社会」と書かれていますけども、トクヴィルが1835年の『アメリカの民主政治』で看破していたアメリカ民主主義社会に見られる「多数者の専制」ってつまりそういうことでしょう。
多数派であることによって加速する彼らの正義の怒りは、少数派である弱者へと向けられ魔女狩りへと変貌していく。
自民党の圧倒的支配による国会運営をしてそう野党が批判することが多いですけれども、むしろトクヴィルが懸念した意味としては、私たちの社会に潜む多数派によるリンチや暴力的衝動の方を示していたわけで。
自らの側の「数」を大正義として、自分とは異なる意見や少数派は排除してもまったく構わないと、意気揚々とファンネルを飛ばす人たち。
マスコミによる扇動はもちろんとして、日本語twitterにもいっぱいいるよねえ。
この方が言うようにSNSによってそれが加速した面は絶対に否定できないでしょう。
現代日本社会も、民主主義社会のデメリットが懸念されているという点で、正しくその系譜にいることの証左なのかもしれない。
その文脈で現代社会でこそ、「数の横暴」によってヒトラーが生まれる、という批判には一理あると言える。
一部の政治家ではなく、他ならぬ我々自身の暴走によって、こそ。
このSNSが隆盛した今の時代になって生まれたのではなく、むしろそうした感情を復活させているという意味で。
やっぱトクヴィルってすげーな。とりあえず民主主義ネタでは彼の箴言を引用しておけばいいんだもん。
ちなみに、「違和感」を覚えているらしいこの方への解答って既に存在しているし、なんならもう実装されているんですよ。
つまり、容易にひとつの方向に流れてしまう我々の『多数派の専制』『数の横暴』にワンクッション置くための、間接民主制=代議制民主主義が現代のスタンダードとなっているように。
直接民主主義において、世論が暴走しそれがどんな結末を迎えることになるのかは、まぁ2020年に生きる私たちは散々目にしているわけで。
やっぱり間接民主主義がナンバーワン!
ところがぎっちょん、我々の代議制民主主義は、しばしば、決定が遅く何なら市民の声を正しく反映していないと批判されているのだった。
まさにそうした「魔女狩りにす~ぐ走る」市民たちの声を、敢えて反映させず抑制してもいるのにね。
我々の多数派の横暴を止めるべきではない! なんて。
やはりトクヴィルが指摘したように、私たちは、心の奥底で、少数派で弱者な意見の異なる人間たちを迫害したいと思っているということなのだろうか。
(最近のtwitterやfacebookなどのSNSを見ながら)……うん、まぁ、そうねえ。
間接民主制vs魔女狩り衝動、という戦いのはてに待つもの。
単純に独裁政治との戦いだけでなくこんな形で『歴史が終わらない』ことを証明してしまうなんてね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?