日本国民が、もうワクチン行政に悩まされなくても、いいようにする!

エピストクラシーか、テクノクラシーか、どちらでもお好きな方をお選びください。
まぁ悩み続けるのもやむなしというのであれば、これまで通りデモクラシーを続ければいいんじゃないかな。



<新型コロナ>国産ワクチン、3年前に治験直前で頓挫 東大・石井教授「日本は長年、研究軽視」のツケ今に:東京新聞 TOKYO Web
ということで、こうして現実の『危機』によって明らかになった、ワクチン行政についての身も蓋もないお話。

◆副反応訴訟めぐり承認20年進まず
 なぜ国は予算を付けなかったのか。一つは、ワクチンの副反応が国内で問題として広く報道され、世論がワクチンを受け入れにくいことがある。国の指導で自治体が奨励したさまざまな予防接種を巡っては、1992年のワクチンの副反応の集団訴訟で国が敗訴。それ以降の約20年間、国内では新しいワクチンがほとんど承認されなかった。
 企業もワクチン開発に力を入れてこず、研究者も少なくなった。石井さんは「(コロナの第1波があった)昨春、すぐに対応できる企業はなかった」とみる。加えて、米国では治験と同時に製造施設の準備を始めるなどの「ワープスピード作戦」に大規模な予算が投じられたが、日本では財政の動きも鈍かった。

<新型コロナ>国産ワクチン、3年前に治験直前で頓挫 東大・石井教授「日本は長年、研究軽視」のツケ今に:東京新聞 TOKYO Web

……うーん、まぁ、そうねえ。
売れるからと反ワクチン報道に熱を上げたマスコミが悪いのか、それを真に受けた国民が悪いのか、あるいはその国民世論を忖度した政治家たちが悪いのか。
まぁみなさんそれぞれに個人的なポジションに沿う形での悪者を定義づけてみればいいんじゃないかな。
それでココロの平穏を買えるならばお酒や薬に頼るよりはマシだろうしね。ただ内心にとどまらず陰謀論に走って周りを巻き込むのはかんべんな。
医療情報室レポート№199( 特 集 : 我が国の予防接種行政を考える )
個人的にどれが誰が一番悪かったのかと敢えて答えるならば、まぁ曲がりなりにも『主権者』とされる私たち国民の方じゃないかなあ。
その立場から考えると、今回のワクチン自国開発失敗の顛末って、まぁ原発事故やあるいは巨大地震対策でも見られた割と「あるある」な光景ではあるので、今回のワクチン開発失敗を、さも例外かのように殊更に論ってみてもあんまり得るものはなさそうとは思います。
なにしろ愚かですぐに騙され感情的反応に走ってしまう私たちがバカな思い込みをして、それを受けて政治が動いた結果でしかないのだから。


ここでふと考えてみると面白い日記ネタになるのは、ならばこの失敗を繰り返さないために必要なのは我々が愛し確信している民主主義政治を捨てるのが一番簡単である、という点だと思うんですよね。
マスコミのバカなニュースに騙されない、かしこい人たちがワクチン行政を強権的に差配すればよかった。
つまり、無数の人びとによる愚かな意思決定ではなく、上記教東京新聞のインタビューに答えている教授のような少数の賢者か専門家による政治的意思決定こそが正解だった。
次からそうすればいいよね。ワクチン行政に素人が口を出すから失敗したのだ。
「素人は黙っとれ――」といつもの画像を張るだけ。簡単じゃん!


それこそプラトンの時代から現代中国共産党まで通じる、『無知による統治』という民主主義政治への批判があるように。
まぁ彼らの言うことって概ね正論ではあるんですよね。
別に何も常に無知で愚かな振る舞いをするのが民主主義の常だと言いたいわけじゃないんですよ。ただ、それこそ今回のワクチンのようにマスコミが誤った情報を大々的に流すこともあるし、あるいはそもそも(トランプやブリグジットの方を見ながら)知識の限界から判断を誤ることだってある。
根本的な大前提としてあるのは、そもそも民主主義政治というのは最後の一線で、その判断能力や専門知識の有無ではなく公平な権利こそが一番重要だと考えている、という点でしょう。
失敗を回避する、ことが最優先じゃないんだから多かれ少なかれこうなってしまうのもある意味で当然の話ではあります。



ということで今回のワクチン騒動の失態を繰り返さない解決策としては単純なんですよ。
――その政治的意思決定を、少数の賢者か、少数の専門家に委ねればいいだけ。
――間違った選択肢をしようとも「社会の構成員たちは、誰もが政治とその結果に関与すべきである」という目的こそを大前提に置く民主主義政治を捨てればいいだけ。
おそらく賢者や専門家である彼ら彼女らは、衆愚な我々がとったワクチン忌避な選択肢とは違い、その科学的知見を下に――まさに人類が感染症と戦うための叡智の結晶である武器――ワクチンの開発とその接種を強力に推し進めていくことでしょう。
おわり。
さらば、全てのデモクラシー。
こんにちは、エピストクラシーかテクノクラシー




ただ、ここで重要なのは、政治的意思決定に参加する資格を誰に与えるか、という単純な話じゃないんですよね。
むしろ考えなければいけないのは、政治的意思決定者を決めるにあたって一体何を最重要視すべきなのか、という点であります。

  • 政治決定に間違いを出来る限り減らすのを第一目的とすべきなのか?
  • それとも、誰もが政治決定に関わる平等と公正さを担保することを第一目的とすべきなのか?

その二つは根本的にコンフリクトする難題であります。まぁもちろん我々の誰もがかしこくなれば問題解決はするんですが、それでは当日記定番オチである「ならば、今すぐ愚民どもすべてに英知を授けてみせろ!」とマジレスされるの不可避であります。
逆説的に、上記のようなプラトン中国共産党が言う『無知による統治』が民主主義批判としては的外れな理由でもある。
だってそもそも無知な人たちにも統治に参加する権利を与えるのが民主主義であるんだから。それは欠点ではなくむしろ美徳である。
そしてこれは、かれこれ2000年以上、政治的動物である私たち人類がずっと問い続けてきた難問でもある。



現実に生きる私たちとしては、正解が解らないままでも、とりあえずはどちらかを選ばなくてはいけない。
デモクラシーか。あるいはエピストクラシーかテクノクラシーか。
つまり我々は、政治に「まず」何を求めるのか。



公平さか、間違いの少なさか。
このアホみたいなワクチン騒動での政治的意思決定のお粗末さをご覧になったみなさんは、いかがお考えでしょうか?