社会正義を追求する際の『正戦論』が生むギャップ

駅員や店員は戦闘員か? あるいは非戦闘員なのか?


「わきまえる障害者になりたくない」JR東の対応に声上げた、車いすの伊是名夏子さん:朝日新聞GLOBE+
ということで結果としてものすごい燃えていた『乗車拒否騒動(拒否されたとは言ってない)』であります。
まぁ結果として見れば、概ねご本人の狙った通りに「議論になってよかった」とかいういつもの愉快な構図になっていて、彼女のやり方に反発している人たちも手の平の上感はあって面白いなあとまったくの部外者として見ていて思ってしまいますけど。
――ただ、同時にまた、最終的にそれが車椅子で生活をしている人たちの為になったのか? についてはまったく別問題だとも思いますけど。
議論にはなったからセーフ!


JR「乗車拒否問題」 車イス芸人・ホーキング青山はこう見た(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
ともあれ、今回の件ついての――彼女の過去のブログから次々と発掘されているそれ以外の愉快すぎる政治的発言の数々はさて置き――比較的中立なまとめとしてはこの方の記事が最も穏健なポジションだろうなあと同意するお話であります。

 多くの障害者が障害を理由に、本来人が当然の権利として行使できることを侵害あるいは剥奪された経験があること、その悔しさや怒りを抱えて生きてきたという現実があります。それを知ってほしい、わかってほしい……こんな思いをしている障害者が多いことは同じ立場なのでよくわかります。

 一方で、『バリアフリー』といっても、あくまで理解があってこそ進むものなわけで、怒りをベースに進めようとしたら、反発を招いてしまって、結局誰も得をしないことになってしまうんじゃないかなあと思いました」

JR「乗車拒否問題」 車イス芸人・ホーキング青山はこう見た(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

そして、ここからもう一歩先を考えてみると、つまるところ今回の件で多くの反発を受けた理由が見えてくるなあと。


つまるところ、これって『正戦論』の議論ほとんどそのものだと思うんですよね。
正しい戦争をするためには、戦うべき相手をきちんと区別し、その目的の正しさに釣り合った戦い方をするべきである。
しかし今回の彼女のやっていることは手段の正しさが確保されていないのではないか? と。

「戦争における法(jus in bello)」には、戦争が正しく行われるための条件を2つ定めている[4]。

戦闘員と非戦闘員の区別(差別原則)
戦争手段と目標との釣り合い(釣り合い原則=不必要な暴力の禁止)
しかしこの"jus in bello"の遵守は十字軍兵士には求められなかった。西欧の「正戦論」はキリスト教世界内部における戦争の限界を定めたものであり、異教徒や異端者との戦争において遵守する義務が無く、特に「戦争における法」が無視される残虐な戦いが容認された[4]。

[正戦論 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%88%A6%E8%AB%96:title=]

差別原則と、釣り合い原則。
『正戦論』なんて倫理問題を持ち出すまでもなく、割と私たちが日常生活でも素朴に重要視する公正さと誠実さの概念だとは思うんですよね。
自分が正しいからといって、何をしてもいいわけではない。
子供から大人まで、誰もが一度くらいは戒められたことのある良識について。




バリアフリーな社会をより推進するために、駅員に「敢えて」負担を迫ることについて。

  • 目的を実現するにあたって、駅員は戦うべき戦闘員なのだろうか?
  • それとも、駅員は本来戦うべき相手ではない非戦闘員なのだろうか?

彼女は正しい戦争を戦っていると確信しているものの、一方でその批判者たちは目的はともかく正しい手段で戦っておらず「駅員に過度な負担をかけるべきではない」と彼女を批判する。


トラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」発言に飛び交う批判。気候科学者が苦言「反発している人は…」 | ハフポスト
その意味では、以前こちらも日記ネタにしたトラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」という発言が『意識高い』と批判されたのと、構図は一緒だと思うんですよね。
環境に配慮した商品を求め戦っていこうとすることは別に構わないんですよ。
しかしそれをコンビニやスーパーなどの従業員にそれを尋ねることは、(本来戦うべき相手ではない)非戦闘員を戦いに巻き込むことに等しいのではないか、なんて。
それとも、環境負荷の高い商品を売っている以上、何の権限も持たないであろう従業員である彼ら彼女らも責任の一端があると考えるべきなのだろうか?



車椅子で不自由な生活をする彼女が駅員にここまでした理由と、逆に多くの人たちがそれに反発を覚えた理由。そのギャップにあるのはこうした認識の違いではないかと。
駅員あるいはコンビニやスーパーの店員たちは、そうした正義の為の戦いに際して「戦うべき相手」というポジションに入るのか?


この戦闘員・非戦闘員という定義については、みなさんそれぞれのポジションから色々とご意見ご感想あるでしょう。
末端に文句を言っても何も解決しないという身も蓋もないマジレスがある一方で、何もせずに見ているだけで共犯者である、という「沈黙な共犯!」人たちだっているわけだし。
その理屈を持ち出せば、駅員や従業員はまごうことなき『戦闘員』である。攻撃目標にされてもまったく文句は言えない。まぁこの理屈を持ち出すとその極北にはザ・テロリストに論理にたどり着いてしまうわけですけども。


社会正義を目指すという目的の是非ではなく、そこで採られる手段の正しさについて。
その戦闘員として見られる範囲について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?