『歴史の正しい側』だったはずのグローバリゼーションの終わり?

「We are on the right side of history」とかつての私たちは言っていたはずなのに、まぁ結果はご覧の有様だょ。





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ということで益々中国に対する包囲網が築かれつつある2021年であります。
重要インフラからの中国排除から始まったそれは、徐々により大きな範囲でのウイグルに関わった製品排除という形に進みつつある。
もうこの流れは早々止まりそうにないよねえ。
やっぱり暴走気味なアメリカに少し遅れる形で、EUウイグルに声を上げ始めた時点で大分雲行きが変わった感は強くて、やはり国際社会()というのはアメリカとヨーロッパのことなんだなあと改めて証明されてしまった感というか。

 新疆ウイグル自治区での人権問題への対応をめぐり、グローバルな衣料品大手企業が右往左往している。企業活動や投資行動で環境や人権問題を重視する「ESG」などと呼ばれる国際的な流れと、ナショナリズムを強める中国の国内市場の重要性との板挟みになっているためだ。

ウイグルの綿を巡る世界の分断 鍵を握るESG投資 | ふらっと東アジア | 米村耕一 | 毎日新聞「政治プレミア」

ともあれ、ここでジレンマに陥っているのはただ各企業がESGと中国市場という板挟みに陥っているだけでなく、むしろより大きな「グローバリゼーションという大義」という正義の行方の方がリベラルな価値観全体にとっては重要だとは思っているんですよね。


私たちはこれまで――特に冷戦以後――自由民主主義と自由市場資本主義こそが『歴史の正しい側』であると喧伝していたわけでしょう。
世界はそうした価値観、つまり世界的な相互依存関係をもたらすグローバリゼーションを推進することで、より豊かに、より平和に、より人権が尊重される世界になる。
……はずだった。
ところが上記のような中国のアレコレは、現実はそのモデル通りにはいかなかったことを証明してしまいつつある。
かくして現在の我々は、単純に中国市場というだけでなくむしろグローバル化そのものへの懐疑と後退を選びつつある。


「繋がる」ことよりも「分断」を。


グローバリゼーションを信じていた私たちの夢の終わり。
『歴史の正しい側』に居ることの終わり。
歴史は終わらなかった。
核兵器廃絶へ「希望・活力が武器」 ICAN事務局長、広島で若者に:朝日新聞デジタル
本邦でも、核禁止条約議論でICANの人がこの言葉を使ったことで喧々諤々な議論になったりしましたけども、けどあれって特にアメリカでは割と一般的というかリベラルな政治家であればよく使われるフレーズでもあったわけでしょう。『核なき世界』な文脈でも同様で、その意味で言えば本邦で批判されていたような、ICANの彼女だけが傲慢だという批判はあまり適切ではない。
むしろ『歴史の正しい側』というのは、そもそもクリントンオバマなどアメリカのリベラルな大統領たちが好んで使っていた言葉であります。
そしてその『歴史の正しさ』の原典の一つが、冷戦後に目指されたグローバリゼーションな世界でもあったわけでしょう。
冷戦に勝利した事実が、私たちがそれまで東側と争われていた『歴史の正しい側』に居ることを証明した。


中国、歴史の正しい側に立ち多国間貿易体制を守る=外務省報道官 | ロイター
ここでクッソ愉快で面白いのは、『歴史の正しい側』に居たはずの我々の方が中国から同じ言葉を使って『歴史の正しい側』に戻るべきだ、と言われている点でしょう。
――そして、少なくとも、これまで賛美してきたグローバリゼーション推進というポジションで見れば、中国の言うことは概ね正しい。
一貫性という意味では確実に中国の言う方が正しい。
変節したのは我々の方である。
かつて多くの私たちが信じていた、グローバリゼーションという歴史の正しさ、というポジションは最早中国に乗っ取られてしまった。
グローバリゼーションでは世界の人権問題や世界平和は実現できなかった。
少なくとも現時点では。
故に、「繋がる」ことよりも「分断」を選ぶしかなくなってしまった、変節した私たち。


まぁ変節すること自体はいいんですよ。
間違っていたのに修正できないよりはずっといい。
ただ、そうするとかつてリベラルな政治家が散々言っていた「We are on the right side of history」って一体何だったの、という疑問が沸くのも否定できないと思うんですよね。
『歴史の正しい側』って、つまるところその都度その都度移り変わっていく、可変機構だったの?
だったら、今この瞬間に彼や彼女たちがドヤ顔で語っている、その『歴史の正しい側』の正しさってどれくらい?


もちろんそもそも「on the right side of history」なんていう言葉そのものが傲岸不遜だったのだ、というと身も蓋もありませんけど。
今起きている私たち自身の手で「中国との分断」を選びつつあるグローバリゼーションの揺り戻しが意味しているのは、かつての傲慢さの敗北なのかもしれない。
『歴史の正しい側』という言葉の陳腐化。
どちらにしても、やはり今回も歴史は終わらなかったのだ。


みなさんはいかがお考えでしょうか?