私たちは「単に人間であるということに基づく普遍的権利」というタテマエを守り続けることができるだろうか?

あるいはそれを諦め上川法相のように「白々しい」「どの口で言う」と批判されるようになるのだろうか?


「人権守ろう」に大ブーイング、「白々しい」「どの口で言う」―上川法相に批判相次ぐ(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース
うーん、まぁ、そうねえ。
この件についてはまぁクソオブクソなのでまったく彼女の行動については擁護できないので、「白々しい」「どの口で言う」と批判されるのもやむなしだとは思うんですが、ただ現実問題として現代の国際関係としてはもう気軽に「(普遍的権利である)人権を守ろう」とは気軽に言えなくなっているのも事実だとは思うんですよね。
Myじんけん宣言 | 人権ライブラリー
ということで自称リベラルな僕としても、折角だしこのトレンドにのって現代社会における『人権』についての個人的見解を書くならば、

自らが取り組む人権課題を選択し、宣言することによって、個人の人権課題への取組を促すものです。
「Myじんけん宣言」を、人権に取り組むきっかけとしませんか。個人の「Myじんけん宣言」をすると、宣言書として印刷することができ、様々な場面で活用することができます。
「人権」は、誰にとっても身近で大切なものです。「人権」を難しく考えずに、「Myじんけん宣言」をして、誰もが人権を尊重し合う社会を、一緒に実現していきましょう。

Myじんけん宣言 | 人権ライブラリー

おそらく、今後の世界では『人権擁護』というポジションは、中国との決定的対立を覚悟した上でそれを言わなければいけなくなっていく――そこで更にドラゴンスレイヤーあるいは反中ネトウヨな言説に利用されていくのも間違いなくて、その意味で人権意識というのはより縮小された概念になっていくんじゃないかと僕は思っています。
それこそ一歩間違えれば「白々しい」「どの口で言う」と批判されるのは私たち自身の方でもありそうだなあ、なんて。




そもそも、アイケンベリーが指摘していたように、両大戦後から始まった「リベラルな国際秩序」というのは勢力均衡や支配ではない立憲という類型から、現代世界において『人権』というのは大前提の概念となっているわけでしょう。そのルールを定めたアメリカやヨーロッパを含めた誰もが人権擁護の政策を基本原則として支持することで、世界に安定した秩序をもたらす。故に彼ら彼女らは常に人権問題を最優先に訴えてきたわけで。
その是非はここではさて置くとして、ところがその国家に依らず誰もが普遍的権利を持つ人権という考え方は既存のウェストファリア体制とは本質的に齟齬を来すものでもあります。
かくしてここで国家主権対人権という避けては通れない二者択一に直面することになる。内政干渉を否定しては、誰もが同じ人権を持つなんてこととても言えない。
これまではその矛盾を見て見ぬフリを続けながらも、ルワンダ虐殺の反省から国連を中心に『保護する責任*1』といった考え方を推し進めてきた欧米世界であったものの、そこで『人権』という価値観にそこまでコミットしない中国の台頭によって話は変わってきたんですよ。アメリカの後退と、あるいはヨーロッパでも進みつつある内部崩壊という意味でも。
国際社会が人権を大義名分に「保護する責任」を負い、故に内政干渉が許容される、というリベラルな国際秩序の進捗はここで決定的な停滞、あるいはその維持の危機を迎えつつある。
現代中国が堂々を表明するように、やはり内政不干渉の方を優先させる方が世界平和に役に立つのではないか? なんて。
そうしたリベラルな国際秩序の終わりの始まり(か?)、というのが現在の米中対立の文脈にある議論でもあるわけで。


その上で、はたして我々は今後もこれまでの20~30年間と同じように堂々と『人権』を擁護することができるのだろうか?
と聞かれると、うん、まぁ、そうねえ……、とやっぱりちょっと悩んでしまいます。



上記日本国内の入管問題のように国内的な問題だったら話は簡単なんですよ。いや、それでも欧米諸国がシリア内戦などで実際に直面していたように、「一体どこまで難民を救済する義務があるのか」という問題は尚も残っていますけども。
しかしそれが国外の問題となると、これまでのように無邪気に大きな声でそれを主張できなくなりつつある。
他国のことだからと途端に小声になってしまう正直な私たち。
「女性は働く権利のため闘うべき」 アフガニスタン脱出の人権活動家 - BBCニュース
タリバンの市民処刑巡る報告「信頼できる」 国連人権代表、監視要求|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
どう考えても現在のアフガニスタンでは、その普遍的権利は喪われようとしている。
『保護する責任のある』はずの我々はアフガニスタンに再び人道的介入をするべきなのだろうか?
それとも放置することで、アフガニスタン国民の人権は当事者ではない我々にとってそこまで重要ではない、と考えている身も蓋もない事実を認めるべきなのだろうか?


人権よりも、他国の内政に干渉しない自国の平和の方が重要である、という考え方には確かに一理ある。
というかウェストファリア体制って本来の意味こそ違えど、つまるところ無用な戦争を減らすことを第一目的にしていたのは間違いないのだし。
おそらく、2021年の現代世界でもアフガニスタンウイグルやシリアやイエメンやスーダンなどの人たちには私たちと同じ人権は無いと認めた上で放置してしまえば、短中期的に平和を買えるのは間違いない。
アフガン自衛隊機派遣/何のために派遣するのか/小池書記局長が批判
その点共産党さんなんかは、現代日本の政党でも珍しいガチな「平和優先」な思想で一貫性があるなあとちょっと感動してしまうんですよね。アフガニスタンの国民の権利はどうでもいい、日本には『保護する責任』はない、としている点でまったく同意はできないんですけど。



こうした諸外国の状況を放置しておきながら、「人権守ろう」なんて言っていたら、やっぱりそれも上川法相が批判されていた「白々しい」「どの口で言う」という構図そのまんまだと思うよ。
それはまた貧しい国々へ回すべきワクチンを強奪している政府を諫めるどころか、もっと急げと要求する我々の所業としても。

いやあ「単に人間であるということに基づく普遍的権利」というタテマエを守るのも楽ではないよね。
国家主権対人権、という新旧国際秩序の戦いが再び始まろうとしている現代世界について。
国内の入管問題だけではなく、アフガニスタンウイグルのニュースなどの人権侵害な国際ニュースを現在進行形で見ている、みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:保護する責任 - Wikipedia従来の人道的介入の概念に対する先入観を払拭し、新たに軍事的・非軍事的介入の法的・倫理的根拠を模索することを目的に、2000年9月にカナダ政府によって設置された介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)が作成した報告書に基づいて定義された。