普遍主義の刃

「できない」のか「できるのにやらない」のか、あるいは「やるべきではない」のか。


「新疆ウイグルにおける深刻な人権状況に対する決議」への反対理由(衆議院・れいわ新選組 2022年1月31日) | れいわ新選組
前回の通常日記ネタからもう少しだけ。

本気で「普遍的価値としての人権」を尊重するなら、
相手となる国によって態度を変えてはいけない。
それは同盟国であってもなくてもだ。
「人権侵害は絶対に認めない」という姿勢を貫く必要がある。

「新疆ウイグルにおける深刻な人権状況に対する決議」への反対理由(衆議院・れいわ新選組 2022年1月31日) | れいわ新選組

まぁ――彼ら彼女らの福島での振る舞いというそびえ立つクソである致命的なダブルスタンダードに目を瞑るのであれば――確かに『普遍的人権』というポジションに立つ者としては、概ね当然のことを言っているとは思うんですよね。
まさか人権が国境によって分断されることがあっていいはずがない。
そこを容認してしまったら「同じ権利を持つ同じ人間ではない」ということになってしまいかねない。
当日記でも批判的に言及することが少なくないものの、ある程度名の通った人権団体というのは、であればこそまるで狂犬のようにどこにでも噛み付いているわけだし。



ただまぁ、だからといって、そんな普遍的価値として「姿勢を貫く必要」があるからといって、私たちの誰もがそうコミットできるかというとそんなことまったくないわけでしょう。
人権問題で発言するか沈黙するか──北京五輪選手に迫られる二択|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
相手へ自発的にするではなく、強いられて『沈黙』させられることは多々あるわけで。

五輪2大会に出場経験のあるアメリカのクロスカントリースキー選手ノア・ホフマンはCNNスポーツに対し、冬季オリンピック中に選手が人権問題に抗議の声をあげた場合、その身に危険が及ぶのではないかという懸念を明かした。

「中国の組織員会は選手が中国の法律に違反したら処罰すると警告している」と、ホフマンは語った。「中国の法律は、言論に関しては、非常に不透明だ。どのような言論が違法とみなされるか、まったくわからない」

人権問題で発言するか沈黙するか──北京五輪選手に迫られる二択|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

「正しくても言いたいことが言えない」
そんなのミクロな個人的生活でも、普通に社会生活を送っていればいくらでもそんなポイズンに遭遇するはずなのにね。弱い立場の我々であれば尚更。
個人の不作為ではなくて、ただただ相対的な弱者であることの証明でしかないんですよ。


その意図と能力の有無を混同するのはフェアではない。
それは個人に限ったわけではなく、マクロな国家においても厳然たるパワーや同盟外交などで差がある国際関係だって同じでしょう。
経済力や軍事力――ひいては『核兵器』の有無によって、何を言えて何を言えないかが決まってきてしまう。
それこそ普遍的価値観を訴えながらも無力な存在というのは、今回のれいわ新選組による無意味な反対それ自体が証明しているわけで。
その意味では「弱いながらも意味がある」と賛成に回った他の政党はまだ誠実でしょう。
少なくとも彼ら彼女らは、自分ができる範囲で誠実に仕事をしているから。


本当にそれが最重要なのであれば、彼ら彼女らが主導し議会工作して『正しい』決議案を採択させれば良かったんですよ。
――しかし現状の議会においてひたすら無力な泡沫政党にはそんな力があるはずもなく。
――そして同様に、中国やアメリカに対してひたすら無力(いや、れいわ新撰組ほどではないか)な日本政府にもそんな力があるはずもなく。
アメリカや中国に強くモノを言えないことを批判しておきながら、皮肉にも自分たちも同じように弱い立場で何もできないという現状を、ただただ縮小再生産しているに過ぎない。
それが嫌なら最初にも書いたように活動家になればいいでしょう。それに存在意義があるのも間違いないのだから。






とまぁここまでちょっと私怨もあってダラダラ書いてきましたけど、でもぶっちゃけ日本国内での決議案なんて枝葉末節な話でしかないのもその通りなんですよね。
もちろん当人たちは真面目にやっているんでしょうけど、世界で進む大きな物語におけるマクガフィンでしかない。
考える価値があるのはその『普遍的価値』そのものの未来の方でしょう。


上記ニューズウィークの記事にあるように、現在進行形で中国やロシアの振る舞いを目の当たりにしている私たちは、文字通り「普遍的価値としての人権」意識の限界を目の当たりにしつつあるわけで。
それは中東やアフリカなどで何度も失敗してきた欧米世界が、ついに失敗ではなくそもそも目指すべきではないと相手から突きつけられている普遍主義の現状について。
かつてヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが、200年以上前に普遍主義への警句として次のように語っていたそうですけども、

「人間が独裁的な権力を用いて、外国のある地域をたちまちもうひとつのヨーロッパに変えられるなどということは、想像しないようにしよう」

現代世界でも、いや現代世界だからこそこの言葉の意味が問われているんじゃないかと。
ま~た『長い19世紀』を繰り返すつもりなのかと思うと、人類ってやっぱ進歩ないなあとも思いますけど。『短い20世紀』の次は『長い21世紀』かな? 結局ナショナリズム共産主義(亜種)が相手ってのもまた面白いよね。
我々が信じている普遍主義という刃は、本当にそれに与さない敵を倒すことができるのだろうか?
あるいはヘルダーが言うように、そのように想像するべきではないのだろうか?


「できない」のか「できるのにやらない」のか、あるいは「やるべきではない」のか。
みなさんはいかがお考えでしょうか?