アサリ様になった日

事実上高級品となったアサリ様と我々は、この先も一緒に精一杯生きていけるだろうか?


アサリの産地偽装はなぜ繰り返されるのか? ~みんなが幸せになる産地偽装のカラクリ~(勝川俊雄) - 個人 - Yahoo!ニュース
最近話題になってた熊本産のアレ。

消費者はだまされた被害者ではありますが、大手量販や水産業界の立場に立つと、現実離れした無理な要求をする消費者に振り回されているという側面もあります。産地偽装をしても品質にクレームがつかないことから明らかなように、殆どの消費者は国産と中国産の品質の違いを理解していません。国産というラベルに消費者は満足して高い金額を払い、大手量販店は売り上げを伸ばし、漁場を貸し出す漁協は収入を得ました。表示が正しくないという事実に目をつぶれば、皆が幸せになる選択肢だったのです。

アサリの産地偽装はなぜ繰り返されるのか? ~みんなが幸せになる産地偽装のカラクリ~(勝川俊雄) - 個人 - Yahoo!ニュース

そんな身も蓋もない。


駆り立てるのは野心と欲望 - maukitiの日記
手をとりあって - maukitiの日記
しかしまぁ昔ウナギ日記書いている時にも薄々思っていましたけども、、
水産流通の闇:漁協職員のカツオ横流しは、なぜ起きたのか(勝川俊雄) - 個人 - Yahoo!ニュース
少し前のカツオ横流しのニュースも同様に、この著者や鈴木智彦さんなんかが言っているようにまぁ概ね日本の水産業界がクソ、というお話ではありますよね。
特に資源管理の面で本邦が大幅に遅れているというのはおそらくその通りで、この点で普段は「日本はまだマシだよ」論者である僕も擁護しようのない中世ジャップランド感あふれていると思います。


一方で、少なくともそんな中世ジャップランドな現状の責任の残り半分は私たち消費者にあるのも間違いないわけで。

産地偽装を無くすことができるか?
アサリの産地偽装の問題を突き詰めると、消費者は次のどちらかを選択することになります。

①これまで通り、消費者の希望に合わせて産地偽装された虚構の世界に安住し、お値打ち価格の国産と表示された輸入アサリを食べ続ける

②不正表示を無くして、外国産のアサリしか選択肢がないという現実を理解した上で、アサリを食べるかどうかを考える

アサリの産地偽装はなぜ繰り返されるのか? ~みんなが幸せになる産地偽装のカラクリ~(勝川俊雄) - 個人 - Yahoo!ニュース

現状維持な前者はともかく、後者はできるかなあ……。
概ねその通りだとは思うんですが、「外国産のアサリしか選択肢がない」ってことはつまり「国産は高級品である」という概念を私たちが受け入れる、ということでもあるんですよね。
もちろん牛肉や果物など他の国産ブランドな食品のように、それ自体が不可能というわけでは決してない。
しかしその価格が広く一般に受け入れられるには、高級品でも欲しい、というだけのステータスが必要になるわけで。別にアサリなんて無ければ無いで私たちはいくらでも暮らしていける以上、そこには相対的な消費としての価値の方が重要になってくる。
フレッド・ハーシュが言った『地位財』――それを買うことが他者に対しての相対的ステータスとなる――にアサリはなれるだろうか?
「たまの贅沢に和牛を食べよう」のと同じように、「たまの贅沢に国産のアサリを買おう」なんてことになるだろうか?


そんな風に「高級品であるアサリ」という概念を我々が受け入れられるかというと……うん、まぁ、そうねえ。
庶民の我々にとっては、おそらく味噌汁の具というイメージが一番強い以上、簡単ではないよね。
味噌汁の具でしかないそれが、いつかアサリ様になる日がやってくるだろうか。


まぁそう考えると、高級品となり『味噌汁の具』という庶民文化が消え去ってからが勝負なのかもしれない。
そうでなければいつまでたってもアサリは庶民のモノという前提から脱却できないから。

そして、その時こそ、我々は偽りの幸せではなく「国産の」アサリを買うことで真の幸せ――他者と比較した相対的な満足――を得ることができるかもしれない。
贅沢のステータスシンボルとして。
アサリ様になった日。


みなさんはいかがお考えでしょうか?