今も尚「アベへの怒りが有頂天」な人たち

むしろ暗殺されたからこそ、今すぐ怒りを叫ばずにはいられない人たち。


ラサール石井、朝日新聞の川柳で安倍元首相の「国葬」反対 「侮辱」の声も(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
茂木健一郎氏 朝日の国葬批判川柳に「権威ある知識人的な匂い」「視点が庶民より上に」/芸能/デイリースポーツ online
前回通常日記でも少し言及した朝日川柳について。

16日の朝日新聞に掲載された川柳「疑惑あった人が国葬そんな国」「国葬って国がお仕舞いということか」を引用し「素晴らしい!」と絶賛。「国葬に反対する人を非国民のように言い死を悼まない人間だと攻撃する者は彼らも攻撃するのか。こんな川柳が生まれるのは国が健康だということ。ユーモアも風刺も封殺する国は滅ぶ。」と自身の考えをつづった。

 最後は「#安倍晋三氏の国葬に反対します」とハッシュタグ。さらに、朝日新聞に掲載された川柳の画像も投稿した。

ラサール石井、朝日新聞の川柳で安倍元首相の「国葬」反対 「侮辱」の声も(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

元々嗜んでいるワケでもないし、川柳作品そのものの出来には言及しませんけども、個人的にはブルドーザーを持ち出すような「あべしね」よりもずっと上品()な手法ではあるのでまぁ別にいいんじゃないかなとは思うんですよね。
それはそれとして社会の木鐸たる『朝日新聞』という媒体でそれをやるのはスゴイなとも正直思いますけど。後述しますけども、それは今回の日記テーマでもある単純に政権批判という枠を超えた政治的部族主義の発露であると思っているので。


ともあれ、ここで特徴的というか典型的であるのは、それが「今も尚(ここ重要)」アベ政治に怒り続けている人たちの言葉である、ということでしょう。
もちろん安倍元首相の政権時代に罪の部分があったのは間違いなくて、それ故に怒りを持つことは別に不思議ではない。
一方で、アベが暗殺されようとしかし我々はその怒りが収まることはない、と件の川柳を読んだ人たち――ひいては朝日新聞はこれ以上ないほど明確に宣言している。
その意味で、やっぱり今も尚安倍元首相への怒りを共有している人たちへのメッセージであって(暗殺を契機にしたかはともかく)その『怒り』をもう共有できていない人たちにはまったく刺さらないのは当然なんですよ。
別の論理に従って生きている部族の人たちを、外野から見ていることに等しい行為でもあるから。



そこにあるのは、今も尚続くその怒りを共有することでまとまろうとする人たち――マーシャル・マクルーハン先生に言わせれば『部族化』した人たちでもある。
今回の件で本題とズレながらも改めて思ったのは、既に首相を退任しても尚、アベ政治への怒りを共有する部族の人たちはまだ居るんだなあと感心した点であります。

私が言いたいのは、こうした集団はどれも同じということでもなければ、訴えることに何も意味がないとか、思慮深い議論を交わす能力がないということではない。彼らは部族なのだということに過ぎない。同じ意見を持つ者同士の集団を、やる気満々のひとつの部族に変えていくものこそ、ともに闘う意義であり、共通する不平の意識だ。

『操られる民主主義』の中で著者のジェイミー・バートレットはこのように書いておりましたけども、今も尚「アベ政治を許さない」という人たちはつまるところこういう話なんだと思っています。
その怒りが正当だとか見当違いだとか個人的に論評する気はないものの、しかしこうした構図こそ現代政治とネット社会について政治学者や社会学者によってずっと語られてきた「アイデンティティー政治」「再部族化行為」そのものに見える本邦での典型例として、とても興味深いとは思うんですよね。
彼ら彼女らは、尚もこうしてその怒りを言葉にし書き込むことで、その帰属意識と連帯感を強めている。


だからこうして演説中に暗殺されたのに批判するなんてという批判の批判は微妙にズレているんですよね。そもそも「暗殺されたのに」ではなく「暗殺されたからこそ」、その中心的教義である怒りが希釈されないように、そうしているんですよ。
ちなみにインターネットにおける『表現の自由』が結果として、こうしたアイデンティティー政治や部族化を煽っている、とも上記バートレットは指摘していてやはりこれは現代民主主義政治における最前線の問題であり、考える価値のあるテーマだとも思います。



アベへの怒りで強い帰属意識と連帯感によって結びついている、部族化された人たち。
――その背後にあるのは、性別や人種や宗教や経済格差や趣味嗜好に関する同じ『怒り』を抱え共有し、帰属意識を持ち連帯感を覚える私たちそれぞれの『部族』でもあり、それこそが現代民主主義政治の常態となりつつある。
みなさんはいかがお考えでしょうか?