ライフメーカーのジレンマ

ロボット三原則か、あるいはロボットライツか。


Boston Dynamics、足蹴にしても踏ん張る犬型ロボット「Spot」(動画あり) - ITmedia ニュース
「ロボット犬」蹴り飛ばすのは虐待!?  「ドラえもん」も巻き込み議論が白熱 (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
http://blogos.com/article/106667/
少し前に話題なっていた『ロボット足蹴動画』についての面白いお話。

ロボット愛護法とは、まるでSFの世界のようだ。

「私の考える『ロボット愛護法』は、ロボットそのものに人権を認めるものではありません。ロボットが今よりもっと身近な存在になれば、少なからざる人間が、ロボット同士に『殺し合い』をさせたり、歪んだ性欲の対象にしたりして楽しむでしょう。

ロボットがそんな扱いをされるのを見た人は、当然、感情を害します。今回のビデオでも、ロボットが足蹴にされる画像を見て、ショックを受けた人が少なからずいるわけです。

そうなると、『ロボットの虐待』が社会に与えるショックを予防する必要があります。愛護法で、ロボットに向けられた『人間の感情』を保護するのです」

http://blogos.com/article/106667/

まぁありそうなお話ではありますよね。それが兵器としてのロボット利用から所謂セクサロイドまで、完全な無法地帯になるというのはなさそうだし。既に戦場における無人機や、あるいは各国でドローンなんかの規制が始まりつつあるし。
――ロボット三原則とはまた違った、人間によるロボット権利の擁護はありうるか?
こうした論理は尚も議論されている動物解放論に代表されるような、環境哲学・環境倫理学なんかにも影響を与えることになるのではないかなぁと少し思ったりします。ただこちらは「ある意味で」単純なんですよね。だって『神』の作った動物たちとは違って、こちらは確実に人間がその造物主なのだから。酷使してもまったく人の気を咎めないような美醜にすることを望めばそのように造ることはおそらく可能だろうし、逆にひたすら愛玩的な姿を与えることだってできる。
酷使するから人間的感情を呼び起こさないような形態にして、逆であれば(既に子犬型やらなんやらがあるように)より感情に訴えるような形態にするのは、まぁ合理的ではあるでしょうね。



その意味で、この到来が予想されるロボット愛護法について、例えばアニマルライツな人たちはどのように考えているのか、単純に興味本位や思考実験で聞いてみたいお話でもあります。人間は人間同士だけでなく他の『種』に対しても倫理的役割や道徳的衝動を持っている、と考える人たちにとってロボットはその射程に収まることになるのか?
実際、彼らの言うアニマルライツな「基準」で言えば今後登場するであろうロボットが入っていたっておかしくないんですよね。

苦痛を感じる能力があること(そのための感覚器官や神経組織、脳を備える)をはじめとして、感情や欲求を持つこと、知覚、記憶、未来の感覚があることなどを基準に、そのような動物にはなるべく自然のままに生きる権利や、人間に危害を加えられない権利があり、人間はそれらの権利を守る義務がある、という考え方です。苦痛を感じる能力のある動物に対して、苦痛を与えることをなるべくやめていきましょう。そのためには、動物を犠牲にする私たちのライフスタイルを変えていく必要があります。

苦痛を感じることのできる相手に対して、あえて苦痛を与えたいと思う人は少ないはずです。そのように配慮する対象を人間に限るのではなく、動物にも広げましょう。動物愛護法のよい側面を、さらに多くの動物へ。

アニマルライツ(動物の権利)とは? | NPO法人アニマルライツセンター 毛皮、動物実験、工場畜産、犬猫等の虐待的飼育をなくしエシカルな社会へ

私たちはライフメーカー=造物主として今後生み出されるであろうロボットたちを「そのように」生み出すことがおそらく可能となるはずです。しばしば指摘されるように『痛み』とはなにも無駄に苦痛を感じるためだけにその機能が備わっているのではなくて、自己保存に決定的に重要でもあるからなわけですよ。痛みとはつまり自身の機能不全の前兆としての重要なシグナルである。
――である以上、ロボットたちに当然もたせるべき機能保全の仕組みの為にも痛みに類似した何かを設計するのは理に適っているはずです。そしていつかは自由意思すらも。
ならばロボットも上記枠組みに含めることになるのか?
現在はまだ不可能だとしても、いつかは絶対的な創造権を握るだろう私たちは如何に造るかについてのほぼ完全なフリーハンドを持っていて、まさに神としての立ち位置に居る以上、初めからそのような「権利を持たないように」造ることだっておそらく可能となるわけですよ。でも先天的に権利を与えないようにと初めから人為的に苦痛や自由意志の実装を(実現可能にもかかわらず)設計から回避しようとすることは、ただ権利を踏みにじるよりもずっと業が深いように思えます。人間・動物として扱われないように、制限しそれ未満とする。
それって動物倫理に熱心な人たちが唾棄する『人間中心主義』そのものじゃないのかと。
しかしここを否定してしまうとロボット誕生の存在意義そのもの=人間の道具=奴隷として生まれ発展したことと、致命的にコンフリクトしてしまいますよね。つまり進化と誕生そのものから否定されることになる。奴隷か存在否定か、という救いようのない二択に。ということはやっぱりロボットは人でも動物でもないと否定されてしまうのでしょうかね。あるいは愛護法ではなく一足飛びに「ロボットは人である」とするのか。
ツテのある人は誰か聞いて僕に教えてください。




「動物解放」の祖であるピーター・シンガー先生は、現代における喫緊の課題として「黒人(人種)解放」「女性解放」に次ぐ第三の解放としてそれを訴えていたわけですけども、もしかしたら今回の『ロボット愛護法』の更に未来には同じようなポジションから「ロボット解放」を訴える人が生まれるかもしれないなぁと。
みなさんはいかがお考えでしょうか?