ペンは剣よりも(正当性が)弱し

「レジティマシーが無い人が、レジティマシーがある人を嗤う」という現代寓話。


高市早苗・自民党総裁、第104代首相に選出 憲政史上初の女性宰相 - BBCニュース
ということで紆余曲折ありながらも総裁選だけでなく首相指名選挙でも票をかき集めどうにかこうにか高市内閣爆誕したそうで。
個人的にこの苦労の多そうな数合わせ騒動を眺めていて思い出したのは、先日あった大変味わいのあるマスメディア様の面白愉快でひたすら軽薄な発言なんですよね。
「支持率下げてやる」カメラマンを厳重注意、時事通信社 他社の写真記者との雑談中に発言 - 産経ニュース
つまり、だからこそ、『ペンは剣よりも強し』はもう二重の意味で現代民主主義社会では通用しなくなっているんだなぁ、なんて。

発表によると、男性カメラマンは他社のカメラマンらと高市氏の取材対応を待っていた際、雑談で「支持率下げてやる」「支持率が下がるような写真しか出さねえぞ」と発言した。

SNSでは、ほかにも「裏金と靖国なんかでしょ」「靖国は譲れません」「イヤホン付けて麻生さんから指示聞いたりして」といった音声が拡散された。これらの発言について、時事通信社は厳重注意したカメラマンの発言ではないとしている

「支持率下げてやる」カメラマンを厳重注意、時事通信社 他社の写真記者との雑談中に発言 - 産経ニュース

この発言の是非はともかくとして、しかし「言った側」と「言われた側」の正当性という面で見るとすごく興味深いお話だと思うんですよね。
ここで軽口の対象となった民主主義社会における政治家というのは選挙という国民による直接的な審判を経てきているわけですよ。今回の高市さんの場合はそれだけでなく更に、自民党総裁選や首相指名選挙と幾度となくその審判をくぐり抜けてきた。
――ぢゃあ、上記のようなマスメディア()の人たちは一体どのような国民からの『信託』を経て来たの?
選挙を経て正当性を得てきた人たちを、何の正当性も――いやマスメディア所属という立派な()肩書だけはある――ない人たちが嗤っている。元々信頼されている人たちならセーフだとスルーできても、まぁ昨今の色々を見ればお察しで、そういう人たちがこんなことをやっていればそりゃ嫌われるのも当然だよね。


政治家もマスコミも当たり前に嘘をつく。では、まだマシな存在はどっちだろうか? という究極の二択。
政治権力であれば、ポピュリズム的だと批判されることはあっても、報道機関からの批判に対して「選挙で選ばれたのは我々だ」と究極的に反論できるんですよ。
ところが報道機関が市民から「お前たちは誰の代表なのか」という聞かれた場合、明確な答えを持ちえない。政治家を自称することは不可能でも、ジャーナリストを自称することは誰にでもできるんですよ。だからこそ彼ら彼女らにとって国民からの信頼を失うことは、皮肉なことに政治家以上に避けなければならなかった。
「公共の利益のため」なんて曖昧で抽象的な大義を掲げることはできても、それは視聴者から信頼されていることと必ずしもイコールとなるわけではない。
ましてや――まさに報道機関がしばしば政治家の『言葉』だけでは何も信頼に値しないと評しているように――その大儀だけで視聴者から信頼されるわけでは絶対にない。


現代マスメディアをめぐる中心議論ってこういうことですよね。マスコミの信頼性の低下だけで済んでいればまだ軽傷だったそれが、ついには「正当性への疑義」という致命的な死に至る病にまで侵襲してしまっている。ここまで来るとマスコミが信頼されているとか信頼されていないの次元じゃないんですよ。
これまで「ペンは剣よりも強し」と称してきた報道機関は、単純に経営的苦境による取材力や権力監視の弱体化だけでなく、同じ信頼性低下という状況に陥りながらも「選挙を経た政治家」というある種究極の正当性を有する存在に道徳的地位まで敗北してしまいつつある。
ペンは剣よりも(正当性が)弱し。
正当性を失った人たちの末路。
政治家であれば幾ら信頼を失っても、最終的には選挙を経ることで少なくとも最低限の正当性を確保できたのにね。
では元々非選出性でその権力に正当性のなかったマスメディアの人たちは、信頼を失い正当性を問われたら一体どう応えるつもりなんでしょうね?


みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

日本人たちの異常な愛情 または私たちは如何にして心配するのを止めて排外主義を愛するようになったか

これまで散々『無責任なポピュリズム』に異常な愛情を注いできたんだからね。排外主義だってそら心配しなくなるよね。



〈全文〉石破茂首相が所感「戦後80年に寄せて」表明 「過去を直視する勇気と誠実さを持ったリベラリズムが大切」:東京新聞デジタル
安部談話への賛否ポジションから喧々諤々な話題となっていた石破首相のありがたいお話が出されたそうで。
……う~ん、まぁ、そうねぇ。ほぼ全面的に賛成できるお話ではあるものの、じゃあ「口から出る言葉は立派でも、実際に何を行動したのか」というよくある警句としてみると、まぁあまりにも良く出来た教訓というか典型的過ぎる寓話を残してくれたお人ではありましたよね。


ともあれ、個人的にすごい示唆的で現代日本社会に刺さるなぁと思ったのは、それに先立つ9月24日に出されていた首相の会見でも出ていた、『無責任なポピュリズム』という言葉であります。

 首相は第二次世界大戦の体験者が減る中で「国際社会は再び分断と対立に向かっている」と指摘。「全体主義や無責任なポピュリズムを排し、偏狭なナショナリズムに陥らず、差別や排外主義を許さない、健全で強じんな民主主義」の重要性を呼びかけた。

石破首相、国連総会で「本来のリベラリズム」訴え 排外主義に危機感 | 毎日新聞

令和最新版『根拠の乏しいかもしれない感情』 - maukitiの日記でも書いたように、古くは年金制度への漠然とした不信、秘密保護法への「軍靴の音」への恐怖、震災後の放射能や汚染水への不安、あるいはHPVやコロナでの反ワクチン運動など、エビデンスやデータに乏しいと批判されながらも『根拠の乏しいかもしれない感情』を恣意的に拾い上げ政治的エネルギーに変換してきた無責任なポピュリズムこそが、まぁ悲しいかな21世紀日本の日常的な政治装置でもあったわけでしょう。
だから個人的に今の排外主義のSNS的な盛り上がりがそこまで意外かというとそんなことは絶対にないんですよね。それは単純に日本人が差別的であるとか、あるいは中世ジャップランドな無法な空気から生まれるからではなくて、何を隠そう無責任なポピュリズムを政治的エネルギーとして異常な愛情を注いできた日本社会だからこそ。


私たち日本人はこれまで散々『根拠の乏しいかもしれない感情』に居場所を与えてきたのに、今更それ言うの?


かくして上記風説の一部に晒されてきた当事者としては、流行りのなろう小説ばりに「ざまぁ」や「今更もう遅い」感が多かれ少なかれ生まれているのを否定しきれない所ではあります。
それを冷笑と言われてしまっては反論できず苦しい所ではあるんですが、
「ムスリム対応の学校給食」に抗議1000件超え 誤情報がSNSで拡散、自治体は困惑 - 産経ニュース
結局JICAのキャンセル運動や上記のムスリム対応給食などに見られる今の排外主義だって、その『根拠の乏しいかもしれない感情』の矛先が移り代わってきただけ、というだけなんですよね。まぁ現代リベラル()社会的にはその被害者の属性こそが重要なのだ、と正論()言われるとぐうの音も出ないよね。一般的には権力を持つ社会的マジョリティとされる存在が、しかし『根拠の乏しいかもしれない感情』の前ではその属性は当然配慮されないモノとなってしまう。
中年オジサンというカースト最下位が被害者では問題にならなかったそれが、マイノリティというカースト上位が被害者となると問題となる、というこちらもまた身も蓋もない現代世界寓話ではあるんですけど。
私たちは法の下では平等でも、空気の下では不平等なのだ。
――しかもそれは何も日本だけという構図では絶対になくて、文字通り先進世界の潮流として。



こうした構図から言うと、石破首相の言う「過去を直視する勇気と誠実さ」というのはやはりとっても示唆的だよなぁと思うんですよね。まぁ最初にも書いたように、この談話が立派で良く出来たものであればあるほど、じゃあ実際の石破さんの政治は何であんなにもあんなモノだったの? という至極真っ当な疑問が出ずにはいられない訳なんですけども。

言うは易く行うは難し、なんだなぁ、げるを

『無責任なポピュリズム』を愛してきた私たち日本人について。
「健全な言論空間」と「他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム」が早く日本にも生まれるといいね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

「一発だけなら誤射かもしれない」問題ふたたび

やっぱり我らが朝日新聞は国際問題の本質部分に鋭く切り込む一流紙なんや!!1

 

ポーランド ロシア軍無人機の残骸見つかる NATOの対応が焦点 | NHK
ネパールやカタールだけでもどったんばったん大騒ぎだというのにポーランドまで。まぁ日本の猛暑と同じで混沌な多極化世界にすっかり慣れてしまいつつある私たち、というお話でもあるんですけども。

ポーランドは、10日朝にかけてロシア軍の無人機19機に領空が侵犯されたとして被害を調査し、無人機の残骸が見つかったと明らかにしました。ポーランドの要請を受けてNATO北大西洋条約機構の加盟国は協議を続ける方針で、今後の関係国の対応が焦点になります。

ポーランドのトゥスク首相は10日、緊急の閣議を開き、「NATO加盟国の上空でロシアの無人機が撃墜されたのは初めてだ」としたうえで、ロシア軍の19機の無人機によって領空が侵犯されたと議会で報告しました。

ポーランド ロシア軍無人機の残骸見つかる NATOの対応が焦点 | NHK

所謂グレーゾーン事態というやつだよね。相手が本格的対応をする閾値のギリギリを狙って、現状を変更しようとする人たち。
ただまぁ無人機が飛んできて実際に民家に被害があったという時点で、厳密にみれば武力行使ひいては「武力攻撃事態(日本議論風)」であるわけですよ。しかし、これを認めてしまえばNATO対ロシアな第三次世界大戦まっしぐらであります。この状況において、その武力攻撃事態と安易に認めることができるかと言うと絶対にそうじゃないでしょう。かくして実際に今回のNATOはそれを認めることはなさそうに見える。

 
ここでものすごく面白いと思ったのは、つまり――もちろん仔細に状況を見れば異なるものの――私たちネット民がこれまで散々馬鹿にしてきた2003年の朝日新聞的な結論とまぁ結局のところほぼ同じところに2025年現在のNATOが着地している、という所なんですよ。
かつての朝日新聞有事法制反対の文脈から「一発だけなら誤射かもしれない」と書いたように、今回のNATOも全面戦争を避ける為に「無人機19機だけなら誤射かもしれない」という立場を事実上採ることにした。
そんな両者の戦争を避けようという素朴で純粋な願いではありますけども、しかし皮肉なことにまさにその態度こそが相手の――この場合ロシアの狙いそのもの「ポーランド領内の施設を攻撃する計画はなかった」であり、身も蓋も無く言えば計算通りなんですよね。
 

一発だけなら誤射かもしれない」
無人機19機だけなら誤射かもしれない」
その発想自体は今回のNATOを見ても解るように、幾つかのデメリットはありながらも*1戦争回避という目的においてはまぁ真っ当な選択肢ではあるんですよ。
しかし問題は、この残酷で醜悪な現代世界においては、攻撃する側から『「一発だけなら誤射かもしれない」と考えるかもしれない』と足元を見られてしまうことと表裏一体なんですよ。そして悲しいかなその見方は概ね正しいと認めざるをえない。
つまり正気で理性を持っている私たちが「一発だけなら誤射かもしれない」と真っ当に考えてしまうそれ自体が、悪い奴らからのグレーゾーンな攻撃に意味が生まれ効果があることを証明してしまうジレンマ。ならば理性や躊躇を捨て去るべきなのか? トランプのアメリカのように?

 
狙って『誤射に見えるライン』を利用しようとする現状変更勢力たち。
今日のポーランドは攻撃だとはみなさないことにした。では、明日か明後日の私たち日本にドローンが飛んで来たらどうするんでしょうね?
 

みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

*1:その態度って、上記NHKニュースにあるような「NATOの領土を1インチたりとも譲ることなく守り抜く」というNATOの存在意義と矛盾してない? とか。

21世紀の反権力

出版されたらベストセラーまったなし。


参政党はなぜ、かくも躍進したのか  論壇時評9月号 論説副委員長・川瀬弘至
ちょっと色々考える価値のある面白いお話だと思ったので、以前書いた令和最新版『根拠の乏しいかもしれない感情』 - maukitiの日記の参政党のお話とちょっと被るところがあるものの、以下適当なお話。

石戸は参政党を、「反グローバリズム」を掲げるポピュリズム政党と位置づける。それが参院選で躍進した理由は、「第一にテレビ出演の成功、第二に組織の拡大、第三に右派ポピュリズムの〝柔軟さ=節操のなさ〟」にあるという。

興味深いのは「第三」の理由だ。石戸は、ポピュリズムの本質は反エリート主義であり、「中心の薄弱なイデオロギー」と定義したオランダの政治学者、カス・ミュデらの学説を引用しつつ、こう指摘する。

ポピュリズム政党に体系的かつ理論的な主張はない。よく言えば柔軟に、悪く言えば節操なく様々な主張と結びつきながら『体制を揺さぶる』ところに最大の特徴がある」

参政党はなぜ、かくも躍進したのか  論壇時評9月号 論説副委員長・川瀬弘至

う~ん、まぁ、そうねぇ。
「悪く言えば節操なく様々な主張と結びつきながら『体制を揺さぶる』ところに最大の特徴がある」
というのは割と頷くしかないお話かなぁと。つまるところそれってみんな大好き反体制・反権力・反政権な運動っていうお話だよね。上記以前の日記でも書いた通り、特異点に見られがちながらやっぱり参政党って良くも悪くも日本の既存政治の延長線上にあるわけでしょう。結局のところそれは、過去の野党たちがやってきた『根拠の乏しいかもしれない感情』をテコにした、既存の権力やルールや常識の否定でしかない。


ここでその手法の是非はさて置くとして、しかしその反対野党な思想自体は概ね真っ当で誠実態度であるとも言えるわけですよ。だって権威者や権力に唯々諾々と従う方が思考放棄だし、怠惰だと批判されてもおかしくない。むしろ私たち人間というのは、良い意味でも、悪い意味でも、教育を受け知識が増えていくほど既存の権威をそもそも疑うようになっていく。だからこそ愚民化政策というのは、縮小均衡でいいならそれなりに正解の選択肢である。
ともあれ教育の普及は、その普遍的な不信感からロバート・パットナムの言う社会関係資本そして『制度』そのものへの信頼感低下に繋がっていく。権威や制度を究極的に信用しなくなった人たちがどう振舞うかは、まぁ陰謀論な人たちを見るとよく解るでしょう。
この教育がもたらすのは民主的先進社会のチェック・アンド・バランスな福音であると同時に、同じくらいほとんどどこでも陰謀論的な主張が蔓延る根本原因の一つとなっているわけですよ。皮肉なことに我々が教育を受けたことこそが。
知恵さえ無ければ神の瑕疵に気付かなかったかもしれないのにね。悲しいね。
参政党が勝ったのは、アダムとイヴが知恵の実を食べて知識を得てしまったのがあかんかったんや……。


人類史上最高到達点とまず間違いなく言えるところまで教育を受けている『衆愚』な私たち。でもそれはそのまま全方位で権威への懐疑化に繋がっていく。家長にも、教師にも、上長にも、政治指導者にも、そして神にも。
この流れは単純に高等教育の広がりだけでなく、現在のAI普及と併せて一層進んでいくでしょう。より賢くなった私たちがすることと言えば……、そう、不信感から体制を揺るがすことだね。
既に旧twitterでもちらほら見えるように、偉そうでムカつく相手の言うことのアラを捜すのにAIを利用することに躊躇いなんてあるはずがない。賢いAIが併記してくれる良かった所探しの方は見てないフリをして。


現状を見ると個人的に、AI社会がもたらす未来の一つってこういうパターンじゃないかと少し思うんですよね。AIを使って妥協的な解決策を探すんじゃなくて、ただただ問題点をあげつらい体制を揺さぶることに夢中となる愚かで悲しい生き物。一体誰がこんなやつらに知恵をつけさせたんだ。↑↑↑
比較優位やメリットが存在しているとあるオプションを設定したとして、そこにゼロサムやデメリットが存在しないなんて美味い話現実にほとんどないわけですよ。つまり、揚げ足だろうが誠実な議論だろうが問題点を挙げようと思えば(自分の知能が許す範囲であれば)幾らだってケチをつけられてしまう。いわんや無限に賢いAIをや。
教育がもたらした功罪は、ほとんどそのままAIの進歩の先と繋がるんじゃないかなって。そしてこれまでの私たち先進国の高等教育化の帰結を見る限り、AI進化で違う結果が出るとは思えない。いやもしかしたら感情がないAIならワンチャンあるかもしれない*1。知らんけど。


教育を受ければ受けるほど、私たちは既存の体制に疑問を持つようになる。
それはほとんどそのまま現状のAIが賢くなればなるほど、権威や体制や権力を揺さぶる力は大きくなる、ということでもある。
AIと反権力について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

*1:AIは「人間じゃないから」こそ説得が通じるという議論があるように

核兵器廃絶とシャーデンフロイデ

名高き『ノーベル平和賞』に値する極めて崇高な倫理的目標である核兵器廃絶運動が、潜在的に避けられないジレンマ。

 


「核兵器で国は守れない」 延暦寺で被団協・田中氏 | NEWSjp
ということで毎年恒例の季節がやってきましたけども、被爆80年という節目だし多少はね。

 天台宗総本山の比叡山延暦寺大津市)で4日、「世界平和祈りの集い」が開かれ、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中熙巳代表委員が「核兵器で国の安全を守ることは絶対にできない」と訴えた。

「核兵器で国は守れない」 延暦寺で被団協・田中氏 | NEWSjp

う~ん、まぁ、そうねぇ。
個人的には彼ら彼女らの平和を求める純粋な動機に不足はないのに、何故その核廃絶機運がまったく高まっていないのかを考えると、身も蓋もなく核保有国の失敗や不幸が足りないから、だとはちょっと思っているんですよね。それこそキューバ危機やソ連崩壊ではまったく足りない程度には。
だからといって「核保有国の不幸を喜ぶ」こと表立って言ってしまっては、平和の実現という純粋な目標が穢れてしまうので、まぁ大きな声では言えないんですけども。

 
ここで思考実験として面白いのは、核兵器保有国をはじめ我々日本を含む『核の傘』の下にある彼ら彼女らが概ね信じている「核兵器で国を守ることができる」は事実上証明不可能であるものの*1、しかし一方でこの被団協の方が言う「核兵器で国の安全を守ることは絶対にできない」は理論的には証明可能という点なんですよね。つまり今すぐ核兵器保有国の安全が損なわれてしまえばいい。核保有国が不幸になればいい。
だから少なくとも、どちらがより検証が可能か、という点で考えると後者であり一定の説得力があるんですよ。
核兵器の無力さえ証明されれば。
それは殆どそのまま核兵器保有国が未曽有の国難に見舞われることを――積極的にしろ消極的にしろ――想定することと同義である。
 

つまり真摯に核兵器廃絶を目指す人たちは、意識的か無意識的かはともかくとして、核兵器保有国の不幸を望まねばならないというジレンマを抱えているわけですよ。だって核兵器保有するメリットがリスクを上回っているという認識が広まると、廃絶の議論は更に説得力を失ってしまうのだから。
(社説)被爆80年の危機 核廃絶からの逆行を許すな:朝日新聞
いやむしろ機運が停滞している2025年の今だからこそ、不幸を望まなければいけない状況に追い詰められつつある。
保有国にはもっともっと不幸になってもらわねばならない。
核兵器保有によって安全保障上の危機を迎えなければならない。
核兵器で国の安全を守ることは絶対にできない」という核廃絶の願いは人道的で崇高であると言えるものの、その裏腹に「核兵器保有という戦略は絶対に失敗であらねばならない」という逆説的な意味をも同時に孕んでいる。

 
だからといって核兵器廃絶を目指す人たちが邪悪だとか言いたいわけじゃ絶対にないんですよ。
まぁ実際に他国(アメリカやロシアや中国やヨーロッパや韓国や台湾あるいは日本でも)の不幸をカジュアルに望むネトウヨあるいはリベラル()な人たちは昨今いっぱい見かけますけども、そうした人たちの内心とは絶対に同じではないという事はできます。
しかし「核兵器で国の安全を守ることは絶対にできない」という言葉の背景にある論理を考えた場合、それは結果として上記ネトウヨやリベラル()の醜悪な感情と似たようなシャーデンフロイデに帰結してしまう。

 

核兵器のメリットとデメリットについて。
保有国のほとんど全てがそれにメリットだけでなくデメリットがある事は解っているんですよ。しかし愚者な(あるいは賢者な)彼ら彼女らは、その選択による不幸になる可能性の方が低いと考えているだけ。
早くそんな核保有国たちの浅慮が裏切られてもっと不幸になればいいのにね。
 

他人の不幸を望まねばならないシャーデンフロイデな私たち。でもしかたないんだ。大きな不幸(核戦争)を避けるためには、小さな不幸で犠牲になってもらうしかないんだ。まぁその他人の小さな不幸というのは、そのまま私たち自身の不幸という意味と限りなく同義でもあるんですけど。
 

みなさんはいかがお考えでしょうか?
 

*1:これは核兵器を巡る定番の議論で、これまでの80年近くは安全だった証明できても、この先未来永劫そうであるとは絶対に言えないんだから。

令和最新版『根拠の乏しいかもしれない感情』

今回最もそれを上手く利用したのは……、参 政 党



ということでゲームをしたり本を読んだりと人生を謳歌し日記をサボっている間に選挙が終わっていたそうで。
内心はともかく(アクティビストではないという意味で)基本的にはノンポリな僕にとっては、「ぼくのNISAくん死亡だけは嫌だ……NISAくん死亡だけは嫌だ……」という位の気持ちで眺めていたので、概ね結果はセーフとは言えなくもない。
当日記も折角10年以上続けてきたわけだし、今回の選挙についても適当に思うところをメモしておきます。



【解説】参院選で極右政党が台頭、「日本人ファースト」で議席拡大 - BBCニュース
で、参政党を我が国民がエウレーカしてしまった結果、BBCに「極右台頭!」と言われてしまう美しい我が国。
まぁ与党敗北は事前から既定路線であり、あとはどれ位負けるのか、そして参政党がどれだけ勝つのかという話ではありましたよね。
個人的には投票数なんかを見ても単純な極右台頭というよりは、上記BBCのあるイギリスはもちろんヨーロッパ各地で台頭する極右政党、そしてトランプのアメリカ、とまぁ良くも悪くも自民党の是非が中心にあった日本にもリベラル()の敗北の波がやってきたんだなぁと。
日本国民「乗るしかない、このビッグウェーブに!」
以前からこの日記でも「多様性を掲げたリベラルが見捨てた中間層を拾い上げる極右」というヨーロッパやアメリカの構図をずっと書いてきましたけど、まぁ基本的には本邦もそういうことだと思うんですよね。同時にほぼそれは「自民党が見捨てた」という意味でもあるんですけど。
故に(我々は見捨てず)日本人ファーストだ、という言葉は一定以上の支持を得ることになった。



ともあれ、今回の件で個人的にすごく面白いと思ったのは、参政党が外国人への排外主義的主張ってほとんどそのまま本邦リベラル()な人たちが使ってきた論法そのまんまじゃないの、という点であります。

「一部の観光客による迷惑行為やマナー違反」が火に油を注ぎ、「外国人問題の深刻化」という印象を生んでいると、ホール氏は語った。

「(参政党は)移民に対する不満や、移民の数が増えすぎているという、根拠の乏しいかもしれない感情を巧みに利用した」

【解説】参院選で極右政党が台頭、「日本人ファースト」で議席拡大 - BBCニュース

この「根拠の乏しいかもしれない感情」って、まぁ私たちがこれまでの選挙でも散々見て来た――そして悲しいことに一定程度の効果を上げてきた手法であるわけですよ。
一部有権者たちが持つ「エビデンス? ね~よそんなもん」とばかりの薄っすらとした正体不明の怖いという感情への共感。
古くは前回政権交代での年金問題特定秘密保護法や安全保障関連法案による軍靴の音、東日本大震災からの放射能やら汚染水やら、散々見て来た手法でありますよね。
――今、私たち日本人は〇〇に怯えているんだ! 配慮すべきなんだ!!1
そしてその陳列棚に今回『外国人』という商品が並んだだけ。お買い上げありがとうございます。
だから今更その感情にエビデンスや統計上の数字に基づかないといったって本当に今更なんですよ。だって今までそれが通用してきてしまったんだから。今までそれを散々利用してきたんだから。実際に外国人への不満という根拠の乏しいかもしれない感情を見捨ててきたんだから
つまり文句を言うのは二重の意味でお門違いなんですよ。
日本の一部候補者たちはそうやって見捨てられた『根拠の乏しいかもしれない感情』を上手く利用してきたし、今回の参政党はその流れに乗っただけ。
まさにそれこそが民主的な選挙というだけ。


根拠の乏しいかもしれない感情を上手く利用して自民党政権を倒そうとして来た本邦リベラル()な人たちではありますが、参政党もその手法を効果的に使うことで成功した。同時にそれは所謂現代的なSNS戦略という意味でも同様で、これまでとても上手く行っているようには見えなかった(あんなオジサンオバサンが無理して若作りをしているような痛々しさではない)とは違った、バズ狙いのショート動画を見ても解るでしょう。
かくして本邦リベラル()が暖めてきた機運を見事に換骨奪胎し成功してみせた参政党。
世界の反リベラルな流れという意味でも、そして上記本邦の政治状況を上手く利用したという意味でも、正しく「風が吹いていた」と評価するしかないかなぁと思います。
そして彼ら彼女らがその風を上手く掴むだけの地道な努力をしていたのも否定できないよね。


反リベラルな『根拠の乏しいかもしれない感情』を上手く使った参政党について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

更なる高画質の世界へ

あけましておめでとうございます。


「本を読んでいれば、教養が身に付く」は勘違い 本物の教養とは | 日経BOOKプラ
みんなだいすききょーよーのおはなし。

堀内勉氏(以下、堀内):今日、どうしても冨山さんとお話ししたいことがあるんです。それは、ビジネスパーソンにとっての「新しい教養」についてです。

 「教養」や「リベラルアーツ」という言葉は、かなり手垢(てあか)にまみれているじゃないですか。僕も『読書大全』なんていう、200冊もの本を紹介するガイドを書いているから誤解されてしまうんだけど、「本を読んでいれば、教養が身に付く」と思っている人があまりに多すぎる。だから、ホワイトカラーの人たちが身に付けるべき「新しい教養」について、少し整理したいと思っているんです。

冨山和彦氏(以下、冨山):「本を読んでいれば、教養が身に付く」というのは、確かに間違いですよね。僕は教養には、「基礎編」と「応用編」があると考えています。日本の社会で脆弱になっているのは、基礎編のなかでも「言語」です。簡単にいえば、「読む力・聞く力・話す力・書く力」です。人間は言葉でものを考えますから、思考するためには「文章を読んで書く」ことが本質です。

「本を読んでいれば、教養が身に付く」は勘違い 本物の教養とは | 日経BOOKプラ

これはその通りで、まぁそもそも教養とは何か、それが何の役に立つのか、という定義の時点から喧々諤々でてんやわんやなお話ではありますよね。
逆説的な構図として、故に誰もが「これがワイが考えるさいきょうの『教養』や!!1」と適当な話をしやすいネタでもあるんですけど。
ということで個人的には『教養』とは、より世界を高解像度で理解するためのツール=視力矯正眼鏡、という認識かなあ。自分が目にしたモノやニュースを見て、一体どれだけの背景関連情報や来歴を知っているかでやっぱりその理解の解像度は変わってくるわけで。その意味で教養は使わなきゃ意味がないというのには同意するしかない。自分が実際に接する情報とその教養が結びついてなくちゃ教養の意味がない。
そもそも最近サボりまくってるこの日記の存在意義もそういうこと=インプットとアウトプットだしね。



よく当たると評判なドラクエ3の性格診断でも見事に「頭でっかち」判定された僕ではありますし、気になったモノ・ニュースは何でも背景情報や来歴を調べて「はぇ~……すっごい(眼鏡クイクイ)」して更なる高画質を求めて生きているんですが、一方で身体性能としてのリアル視力は老化に伴ってマジで落ちてるんですよね。
もう裸眼では何でもかんでもボヤけて曖昧模糊になりながらも、それはそれで別に概ね問題なく生きていけるわけで。これは上記『教養』でもまったく同じお話なんですよ。より遠くまでより細かいところまで見えるのは確かにアドバンテージではあるものの、かといってそれ自体が是非や善悪を判断するモノではない。
それこそ自分の周囲の半径数メートルのような、慎ましくささやかな行動範囲内だけで暮らしていくならばそれ以外の解像度が幾ら低くても何の問題もない。古代には大多数の私たちがそうやって無知の闇の中でも素朴に生きてきたように。


幾らでも知識を得られる手段のある現代世界でもそのように無知なままの人たちを無教養のバカだと見下すこと自体はわからなくないし、スノッブな内心を持たないことがまったくないとは言えないものの、個人的な教養観からすればこんなの視力の良し悪しと大差ないんですよ。
もちろん基本的には無いよりあったほうがいいし、パイロットや医師のように職業的に視力が要求されるのと同様に、教養が要求される仕事や生活スタイルの人たち、あるいはより遠くを見たいと渇望する人たちがいるでしょう。
――でも無くったって全然生きていける。
ついでに言えば、古今東西の説話が教えてくれるように「視えすぎる」ことが必ずしも個人の幸せに繋がるわけではないのだから。


無限の解像度を持つこの現実世界同様、『教養』の範囲だって事実上無限の深さがあるわけで。誰だってそんなヒマじゃないんだからある程度のところで見切りをつけるしかない。そうやって『無教養』とされるラインをどこかに引こうとすれば、どこまでいっても恣意的にならざるをえないわけで。
「(自分が知ってるので)これ知らない奴全員バカです」とかいかにも解像度低いいかにもな世界で生きていければ、やっぱり幸せなんだろうとは思いますけどね。


ただこの辺は、現代世界の最前線のテーマでもある、所謂『陰謀論』のような色付き教養をもってして「世界がもっとよく見えるぞォォォ!」と眼鏡クイクイしてしまうことの一里塚となってしまいかねないのが辛いお話でもあります。
ぶっちゃけ教養と陰謀論って、その中身はほとんど真逆でありながら、しかし両者はほとんど同じ意味として扱ってるよね。
そしてひいてはそれが現代社会における『教養』への反知性主義的な反発になりかねないという意味でも。
教養と陰謀論という、世界をより詳しく見るためのツールについて。(アメリカや韓国の方を見ながら)……一体どうなるんでしょうねえ。


ということでより進化し8K高解像度を求める人も、あるいは640×480で十分やと思っている人も、陰謀論眼鏡の人は……うん、まぁ、がんばって、
みなさまの今年一年がよい年でありますように。