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冷笑地獄とは正義や正しさの不在なり

いつものまずは正義や正しさを屏風から出して下さい問題。



人の正義を笑うな。SNSに蔓延する「冷笑主義」はなぜ危険なのか | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)
一年前の記事ではありますけども、以前もまったくの心外ながら冷笑的と怒られたことのある私としても概ね同意できるお話ではあるかなあ。

冷笑系」という言葉をご存じだろうか。「個々の政治的主張や社会的活動を独りよがりであるとみなし、上から目線で冷笑する人々」という意味で使われる、近年流行しているネットスラングだ。ツイッターなどのソーシャルメディアを中心に、しばしば否定的なニュアンスで用いられている。

最近では、歌手のきゃりーぱみゅぱみゅ検察庁法の改正をめぐり「#検察庁法改正案に抗議します」とハッシュタグを付けてツイートするなど、芸能人による政治的な意思表明が話題となった。黒人差別への抗議活動が活発化するアメリカ発の「#BlackLivesMatter」でも同様な動きが見られる。ソーシャルメディア上で政治的な発言をする芸能人らに対しては賞賛が集まる一方、「何も分かってないくせに」「芸能人の政治的主張なんて無意味」といった趣旨の、冷笑的な批判も多くみられた。

人の正義を笑うな。SNSに蔓延する「冷笑主義」はなぜ危険なのか | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

わかるわかる~、もっと最近では「ウイグル論法」とかのことだよね!



でもまぁ冷笑する人たちが絶えない理由は割と理解できるんですよね。
だってそっちのポジション――とりえあえず何か腐しておけば賢いフリができる―――が楽であるという身も蓋もない理由がまずあるし、そしてそもそも現代世界に無数に溢れている玉石混交な正義たちに対して確信がもてないから。だったら全てを疑った方が楽だというのは間違いないんですよ。


だからこの人の指摘する冷笑主義が危険だという指摘は正しい。
しかし、それと同じ程度は正義の暴走を懸念する指摘も正しい。


現在起きている構図って、結局のところ、一方は正義に対する無邪気な確信を『正義の暴走』と十把一絡げに批判するし、もう一方は正義に対する懐疑的態度を『冷笑主義』だと十把一絡げに批判している。
両者は表裏一体である。
その独りよがりな振る舞いの本質にあるのは、誰もが同意できるような確固とした正義や正しさについての議論の不在ということでしょう。





この不在について、上記著者も語っているところであって、

もし「正義の暴走」を本当に抑止したいと考えるならば、批判の対象となる政治的主張ファシズムや弱いものイジメに与するような主張であるのか、それとも反対にそれらに抵抗する主張であるのかという点を吟味する必要がある。

無論、どのような主張が支配的立場たる多数派の意見を代表しているのかという点については、相対的に変化する問題でもあるため、歴史や経済、メディア環境など様々な側面を考慮ねせばならない。ただ少なくとも、やみくもに「正義」を冷笑するだけでは、ファシズムに抵抗するどころか、無自覚にそれの片棒を担ぐことになってしまうということは、決して忘れてはいけない点ではないだろうか。

人の正義を笑うな。SNSに蔓延する「冷笑主義」はなぜ危険なのか | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

「吟味する必要がある」
「様々な側面を考慮ねせばならない」
だれが?
どうやって?
それを決めるの?
独りよがりという批判に反論するためには、広く議論する必要があるわけで。
著者の言葉を借りるならば、その主張について一体どちらが「批判の対象となる政治的主張ファシズムや弱いものイジメに与するような主張」で「どのような主張が支配的立場たる多数派の意見を代表している」のか、同意ができないからどちらも自分の都合のいい言葉で議論を切り捨てようとする。
かくして誰もが自分に都合のいいように、相手を『正義の暴走』や『冷笑主義』と嗤うことになる。
その不在こそが、SNS冷笑主義が蔓延する理由じゃないのかと。



行き過ぎた人権や生命財産への侵害など解りやすい議論の余地がない『正義』『正しさ』であれば話は簡単なんですよ。
でもぶっちゃけそうした簡単な話の方が少数派で、むしろ解決されていない政治的主張や社会的活動というのは「様々な側面を考慮せねばならない」ことの方がずっと多いわけでしょう。だからこそ今でも未解決な問題となっているのだから。

  • 反ワクチンな主張を冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • ブルカ着用禁止な政策を冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • 緊縮財政あるいは財政出動な主張を冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • テロ対策に少数民族を弾圧する行為を冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • 民主主義政治には欠陥があるという主張を冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • 国家安全保障の為に核兵器を持とうとする行為を冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • かつて保有していた領土を取り戻せと主張する人たちを冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • 伝統的宗教や文化を理由に同性愛や中絶に反対する人たちを冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
  • 気候変動問題に立ち向かうために原子力発電を推進しようとする人たちを冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?


一体どこのだれがそれぞれの主張を『吟味』して、その正義や正しさについて屏風から出してくれるの???
それとも何が正義で正しい主張なのかは決まってないけど、とりあえず何でもかんでも冷笑主義だって反発しているだけ?


この確固たる正義や正しさに関しての議論の不在について現在進行形で典型的事例の一つとなっているのが、世界的な争奪戦の様相を呈している新型コロナウイルス感染症のワクチン確保の問題だと思っているんですよね。
ファイザー製ワクチン 日本への追加供給は5000万回分 | 毎日新聞
WHO事務局長とグレタさんがタッグ、公平なワクチン供給を訴える(字幕・20日) | Reuters Video
例えば、当日記を書いている僕のポジションとしてはほぼ一貫して「先んじてワクチンを確保する先進国」に対してそれはエゴだよと冷笑し続けていますけども、少なくとも現在の日本社会では、ワクチンの確保が(欧米先進国と比較して)遅れている、という批判はあっても自分たち日本の分をよりヒドい状況にある後進国に譲るべきだという声はほとんど無視されているわけでしょう。
――ただ、自分で言っておきながらこれはかなり紙一重の正義(だから敢えて面白半分に言っている面もある)だとは思うんですよ。
この場合、ワクチンを「自国民の為に」確保することと、「自国民の分を諦めて」でも後進国に譲ること、一体どちらの主張が正義であり正しいことなのだろうか?
前者の行為を冷笑することと、後者の行為を笑うこと、一体どちらが正当性ある主張を冷笑していることになるのだろうか?
どこかの偉いだれかが、ワクチン確保の正義や正しさについて『吟味』してくれればいいのにね。
……この件で国連のWHO事務局長より偉い人っている?



ということで、僕としては因果関係が逆だと思っております。まぁ結果は一緒ですけど。

ディオゲネスが示したような勇気は、長い歴史の中で「シニシズム」から消えて無くなってしまったが、この言葉が本来もっていた意味は、世の権威を勇気ある態度で批判する抵抗の精神だったのだ。

シニシズムが蔓延する現代のソーシャルメディアにおいて、果たしてこのような抵抗する勇気はどれだけ良しとされているのだろうか。私たちは多数派の意見に流されるがままに思考停止し、正義や正しさへのシニシズムに陥ったアイヒマンのようにはなっていないだろうか。ディオゲネスのような「勇気」のある生き方について、今こそ考え直す時期ではないか。

人の正義を笑うな。SNSに蔓延する「冷笑主義」はなぜ危険なのか | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

シニシズムが蔓延することで思考停止してしまっているのではない。
正義や正しさについて(著者が言うように様々な側面を考慮せねばならないあまりにも複雑で難しい故に)思考停止してしまった故に、シニシズムが蔓延するようになってしまった。



何が正義で正しいのか、神様か預言者か聖人か誰かが簡単に決めてくれればいいのにね。
――科学的知見や社会正義よりも、神の言葉を優先して生きよという人たちを冷笑することは、「人の正義を笑う」ことだろうか?
う~~~~ん、センシティブ。
ぼくにはこれについて何が正義で正しいのかについて、はっきりと口に出しては答えられないなあ。


多文化を尊重し理性ある世界に生きている私たちは、その複雑で厄介すぎる問題を公に議論すること自体に立ちすくんでしまっている。
そりゃみんな楽なシニシズムに逃げちゃうのも無理はないよね。
だって考えなくて済むから楽だもん。
みんなそんなヒマじゃないんだもん。


だからといって、シニシズムのせいで正義や正しさについての議論が無くなったわけではない。正義や正しさについての議論の不在こそがシニシズムを生んでいる。
みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

通常日記

手抜き日記。
 

 

 

 

 

 

 

  • 障害のある子どもを産んだ母親は神様に選ばれたの?強くないといけないの?|ダイバーシティ(多様性)|時事メディカル|時事通信の医療ニュースサイト
  • 「◇言われたキーワードで、一番大っ嫌いなキーワード「神様に選ばれたのよ」「あなたを選んで生まれてきたのよ」」
    • もちろん彼女の苦しみを理解することはできませんけども、しかしこういうことを良くも悪くも「安易に」言ってしまう側の気持ちはちょっと理解できるんですよね。それってつまり「神は乗り越えられる試練しか与えない」的な素朴な信仰で、キリスト教に縁が薄い日本人にもそこそこ広まっているし。
    • 個人的にはコレヘトの言葉にあるような「時と災難はあらゆる者の身に起こる」という世界観*1の方がずっと救いになりそうだとは思いますけど。けどこれはこれで弱い私たちの不安感と無力さをかき立ててしまう哲学ではあるんだよねえ。信じるだけで救われる方がずっと楽だよね。そして上に戻る。

 

 

 

 
 

『歴史の正しい側』だったはずのグローバリゼーションの終わり?

「We are on the right side of history」とかつての私たちは言っていたはずなのに、まぁ結果はご覧の有様だょ。





【独自】海底ケーブル敷設、日米豪が連携…急速に台頭する中国に対抗 : 経済 : ニュース : 読売新聞オンライン
Huaweiがオランダ最大の電気通信事業者を盗聴できる状態だったことが判明 - GIGAZINE
カゴメ、新疆産トマト使わず ウイグル人権問題に配慮: 日本経済新聞
ウイグルの綿を巡る世界の分断 鍵を握るESG投資 | ふらっと東アジア | 米村耕一 | 毎日新聞「政治プレミア」
ウイグル族の強制労働問題 問われる日本企業のビジネスと人権への対応 | SUSTAINABLE BRANDS JAPAN
ということで益々中国に対する包囲網が築かれつつある2021年であります。
重要インフラからの中国排除から始まったそれは、徐々により大きな範囲でのウイグルに関わった製品排除という形に進みつつある。
もうこの流れは早々止まりそうにないよねえ。
やっぱり暴走気味なアメリカに少し遅れる形で、EUウイグルに声を上げ始めた時点で大分雲行きが変わった感は強くて、やはり国際社会()というのはアメリカとヨーロッパのことなんだなあと改めて証明されてしまった感というか。

 新疆ウイグル自治区での人権問題への対応をめぐり、グローバルな衣料品大手企業が右往左往している。企業活動や投資行動で環境や人権問題を重視する「ESG」などと呼ばれる国際的な流れと、ナショナリズムを強める中国の国内市場の重要性との板挟みになっているためだ。

ウイグルの綿を巡る世界の分断 鍵を握るESG投資 | ふらっと東アジア | 米村耕一 | 毎日新聞「政治プレミア」

ともあれ、ここでジレンマに陥っているのはただ各企業がESGと中国市場という板挟みに陥っているだけでなく、むしろより大きな「グローバリゼーションという大義」という正義の行方の方がリベラルな価値観全体にとっては重要だとは思っているんですよね。


私たちはこれまで――特に冷戦以後――自由民主主義と自由市場資本主義こそが『歴史の正しい側』であると喧伝していたわけでしょう。
世界はそうした価値観、つまり世界的な相互依存関係をもたらすグローバリゼーションを推進することで、より豊かに、より平和に、より人権が尊重される世界になる。
……はずだった。
ところが上記のような中国のアレコレは、現実はそのモデル通りにはいかなかったことを証明してしまいつつある。
かくして現在の我々は、単純に中国市場というだけでなくむしろグローバル化そのものへの懐疑と後退を選びつつある。


「繋がる」ことよりも「分断」を。


グローバリゼーションを信じていた私たちの夢の終わり。
『歴史の正しい側』に居ることの終わり。
歴史は終わらなかった。
核兵器廃絶へ「希望・活力が武器」 ICAN事務局長、広島で若者に:朝日新聞デジタル
本邦でも、核禁止条約議論でICANの人がこの言葉を使ったことで喧々諤々な議論になったりしましたけども、けどあれって特にアメリカでは割と一般的というかリベラルな政治家であればよく使われるフレーズでもあったわけでしょう。『核なき世界』な文脈でも同様で、その意味で言えば本邦で批判されていたような、ICANの彼女だけが傲慢だという批判はあまり適切ではない。
むしろ『歴史の正しい側』というのは、そもそもクリントンオバマなどアメリカのリベラルな大統領たちが好んで使っていた言葉であります。
そしてその『歴史の正しさ』の原典の一つが、冷戦後に目指されたグローバリゼーションな世界でもあったわけでしょう。
冷戦に勝利した事実が、私たちがそれまで東側と争われていた『歴史の正しい側』に居ることを証明した。


中国、歴史の正しい側に立ち多国間貿易体制を守る=外務省報道官 | ロイター
ここでクッソ愉快で面白いのは、『歴史の正しい側』に居たはずの我々の方が中国から同じ言葉を使って『歴史の正しい側』に戻るべきだ、と言われている点でしょう。
――そして、少なくとも、これまで賛美してきたグローバリゼーション推進というポジションで見れば、中国の言うことは概ね正しい。
一貫性という意味では確実に中国の言う方が正しい。
変節したのは我々の方である。
かつて多くの私たちが信じていた、グローバリゼーションという歴史の正しさ、というポジションは最早中国に乗っ取られてしまった。
グローバリゼーションでは世界の人権問題や世界平和は実現できなかった。
少なくとも現時点では。
故に、「繋がる」ことよりも「分断」を選ぶしかなくなってしまった、変節した私たち。


まぁ変節すること自体はいいんですよ。
間違っていたのに修正できないよりはずっといい。
ただ、そうするとかつてリベラルな政治家が散々言っていた「We are on the right side of history」って一体何だったの、という疑問が沸くのも否定できないと思うんですよね。
『歴史の正しい側』って、つまるところその都度その都度移り変わっていく、可変機構だったの?
だったら、今この瞬間に彼や彼女たちがドヤ顔で語っている、その『歴史の正しい側』の正しさってどれくらい?


もちろんそもそも「on the right side of history」なんていう言葉そのものが傲岸不遜だったのだ、というと身も蓋もありませんけど。
今起きている私たち自身の手で「中国との分断」を選びつつあるグローバリゼーションの揺り戻しが意味しているのは、かつての傲慢さの敗北なのかもしれない。
『歴史の正しい側』という言葉の陳腐化。
どちらにしても、やはり今回も歴史は終わらなかったのだ。


みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

通常日記

手抜き日記。
 

 

 

 

  • 政治デモ参加者に「近づきたくない」 日本と中国で突出:朝日新聞デジタル
    • これは面白い調査。そもそもデモの中身ではなく、デモをやっている人たちに忌避感、というのがポイントだよねえ。つまるところ――それこそ『無職』やカタギじゃない人たちのような(時代を少し遡れば正社員や独身な属性などと同様に)――デモをやる人たちは真っ当な人間ではない、という認識があるからでしょう。
    • その認識の是非はさて置くとして、はたして日本社会における「デモをやる人間は少しおかしい」という認識は一体どこからきたんでしょうねえ(安保闘争の方を見ながら)。

 

  • 伊是名氏の計算違いか 自民・熱海市議に聞く | 令和電子瓦版
    • これは面白い記事。こうして地道にバリアフリー化を進める政治家が日の目が当たらない一方で、ああした「過激な行動」を採るほうが注目されてしまうというのは社会の縮図という感じだよなあと。そりゃ手っ取り早く耳目を集めたいならそうするしかないよね。バイトテロをSNSにアップしちゃう承認欲求モンスターかな?

 

 
 

通常日記

手抜き日記。
 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

貧しいブルーカラーたちはトゲゾーこうらの夢を見るか?

「努力するものが報われて欲しい」というそぼくなきもちの果てにあるもの。




「マリオカート」に世界から貧困をなくすヒントがあるとの論文が発表される - GIGAZINE
ということで先日の通常日記で言及した、マリオカートからヒントを得た不平等解消のさえたやり方について。

貧困にあえぐ発展途上国の農民を救う方法を模索していたベル助教授が注目したのが、レースゲームの「順位が低いプレーヤーほど強化される」というルールです。例えばマリオカートでは、順位が低いプレーヤーほどアイテムボックスからいいアイテムが取得できる確率が高くなるため、出遅れたプレーヤーでも一発逆転が狙えるようになっています。

このルールを参考に、貧しい人ほど手厚い援助が得られる助成プログラムを設計することで、貧困問題を改善に導けるのではないかとベル助教授は考えています。具体的には、政府が助成プログラムを立ち上げて、これを利用した水力発電会社が農民と協力して土地の侵食を防止するような農法を導入することで、水力発電会社によるダムと水力発電所の建設が可能になるといったケースが考えられます。こうしたケースには複雑な助成システムが必要ですが、適切に機能することで農民の支援と環境保護を両立することができます。

「マリオカート」に世界から貧困をなくすヒントがあるとの論文が発表される - GIGAZINE

うーん、まぁ、そうねえ。
任天堂が"トゲゾーこうら無しのマリオカート"をテスト。しかし「何か物足りない」
おそらく、それらのアイテムがあった方が、逆転要素が生まれ順位の流動性が高くなるというのは間違いないでしょう。
問題はゲームならともかく、自身の生命財産(そして尊厳)と直結した現実世界において、そうした『パワフルダッシュキノコ』や『トゲゾーこうら』などの、やり方を私たちがどこまで受け入れられるか、という点だと思うんですよね。


それこそ能力主義的な価値観に染まったリベラルな私たちが、「教育によって貧困問題は解決できる」と素朴に信じている私たちが、そんなやり方を受け入れることができるの???
――と、考えるとそれは無理じゃないかなあと僕は悲観的な見方にはなってしまいます。
文字通りエスタブリッシュメントであり、「逆転される側」である人たちがそんな一発逆転手段なトゲゾーこうらを導入するなんてとてもとても。
トマ・ピケティに身も蓋もなく言わせれば、各国に共通してみられる左派政党の衰退は労働者ではなく知的エリートたちの為の政党になってしまった故に格差問題の解決に及び腰になったのだ、なんて風に。


かくして成功者である彼ら彼女らは、取り澄ました顔をして『教育』こそが全てを解決すると叫ぶことになる。
確かにそうすれば再分配とかしなくてもいいもんね。
しかし、そうした態度こそが、現実に多数いる低学歴ながら必死に生きているブルーカラーな人たちの不満を招くことになる。


「能力主義」が社会を分断 マイケル・サンデル氏: 日本経済新聞
ちなみに、こうしたメリトクラシー――特に学歴偏重主義による弊害を憂慮していて、むしろそれこそがアメリカの社会分断の源であると指摘するのがマイケル・サンデル先生であります。

テレビ番組「ハーバード白熱教室」で知られる哲学者、マイケル・サンデルハーバード大教授の新刊邦訳「実力も運のうち 能力主義は正義か?」(鬼澤忍訳、早川書房)が14日、刊行される。人は出自によらず、努力と才能次第で成功できるという考え方が暴走し、エリートに傲慢を、その他大勢に屈辱と怒りを生んでいると指摘する。社会を分断しかねない状況にどう向き合うか、著者に聞いた。

「能力主義」が社会を分断 マイケル・サンデル氏: 日本経済新聞

ここで面白いというかクッソ皮肉なのは、高学歴エリートな彼ら彼女らがまったくの善意から――それ自体はまったく疑いようがない――「教育こそ全てを解決する」と強調すればするほど、逆説的にそれでも低学歴な人たちへの偏見や侮蔑的態度を推進しているという点でしょう。


自らの成功は自らの教育と努力のおかげであるならば、逆説的に貧困は教育の失敗と努力の不足である。
うーん、マッチョな考えだよね。
意図しているのか無意識なのか、格差と貧困を解決するために教育を叫ぶリベラルな彼ら彼女らにはそうした態度が透けている。
そして更には、見下される側である努力や才能が欠けているとされた貧困層な人たちにとっても同様に。


努力が報われる社会であって欲しいというそぼくな気持ちと、失敗した人たちを努力や能力不足だと切り捨て蔑む気持ち。
その両者は限りなく紙一重でもあり、サンデルによれば特にアメリカ社会ではその一線が越えてはいけないラインを越えてしまった故に、大卒なエリートと大衆の間にある分断の深刻さは手遅れなものになりつつあると指摘している。


能力主義を信じる故に見下す者たちと、能力主義を信じる故に見下されていると気づく者たち。
かくして怒れる愚かな大衆たちがすることと言えば……。
おれたちには、トランプしかないんだ! だから、これがいちばんいいんだ! - maukitiの日記
もしかして:トランプ



教育か、それともトゲゾーこうらか。
貧困や格差問題を憂うみなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

社会正義を追求する際の『正戦論』が生むギャップ

駅員や店員は戦闘員か? あるいは非戦闘員なのか?


「わきまえる障害者になりたくない」JR東の対応に声上げた、車いすの伊是名夏子さん:朝日新聞GLOBE+
ということで結果としてものすごい燃えていた『乗車拒否騒動(拒否されたとは言ってない)』であります。
まぁ結果として見れば、概ねご本人の狙った通りに「議論になってよかった」とかいういつもの愉快な構図になっていて、彼女のやり方に反発している人たちも手の平の上感はあって面白いなあとまったくの部外者として見ていて思ってしまいますけど。
――ただ、同時にまた、最終的にそれが車椅子で生活をしている人たちの為になったのか? についてはまったく別問題だとも思いますけど。
議論にはなったからセーフ!


JR「乗車拒否問題」 車イス芸人・ホーキング青山はこう見た(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
ともあれ、今回の件ついての――彼女の過去のブログから次々と発掘されているそれ以外の愉快すぎる政治的発言の数々はさて置き――比較的中立なまとめとしてはこの方の記事が最も穏健なポジションだろうなあと同意するお話であります。

 多くの障害者が障害を理由に、本来人が当然の権利として行使できることを侵害あるいは剥奪された経験があること、その悔しさや怒りを抱えて生きてきたという現実があります。それを知ってほしい、わかってほしい……こんな思いをしている障害者が多いことは同じ立場なのでよくわかります。

 一方で、『バリアフリー』といっても、あくまで理解があってこそ進むものなわけで、怒りをベースに進めようとしたら、反発を招いてしまって、結局誰も得をしないことになってしまうんじゃないかなあと思いました」

JR「乗車拒否問題」 車イス芸人・ホーキング青山はこう見た(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

そして、ここからもう一歩先を考えてみると、つまるところ今回の件で多くの反発を受けた理由が見えてくるなあと。


つまるところ、これって『正戦論』の議論ほとんどそのものだと思うんですよね。
正しい戦争をするためには、戦うべき相手をきちんと区別し、その目的の正しさに釣り合った戦い方をするべきである。
しかし今回の彼女のやっていることは手段の正しさが確保されていないのではないか? と。

「戦争における法(jus in bello)」には、戦争が正しく行われるための条件を2つ定めている[4]。

戦闘員と非戦闘員の区別(差別原則)
戦争手段と目標との釣り合い(釣り合い原則=不必要な暴力の禁止)
しかしこの"jus in bello"の遵守は十字軍兵士には求められなかった。西欧の「正戦論」はキリスト教世界内部における戦争の限界を定めたものであり、異教徒や異端者との戦争において遵守する義務が無く、特に「戦争における法」が無視される残虐な戦いが容認された[4]。

[正戦論 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%88%A6%E8%AB%96:title=]

差別原則と、釣り合い原則。
『正戦論』なんて倫理問題を持ち出すまでもなく、割と私たちが日常生活でも素朴に重要視する公正さと誠実さの概念だとは思うんですよね。
自分が正しいからといって、何をしてもいいわけではない。
子供から大人まで、誰もが一度くらいは戒められたことのある良識について。




バリアフリーな社会をより推進するために、駅員に「敢えて」負担を迫ることについて。

  • 目的を実現するにあたって、駅員は戦うべき戦闘員なのだろうか?
  • それとも、駅員は本来戦うべき相手ではない非戦闘員なのだろうか?

彼女は正しい戦争を戦っていると確信しているものの、一方でその批判者たちは目的はともかく正しい手段で戦っておらず「駅員に過度な負担をかけるべきではない」と彼女を批判する。


トラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」発言に飛び交う批判。気候科学者が苦言「反発している人は…」 | ハフポスト
その意味では、以前こちらも日記ネタにしたトラウデン直美さんの「環境に配慮した商品ですか?」という発言が『意識高い』と批判されたのと、構図は一緒だと思うんですよね。
環境に配慮した商品を求め戦っていこうとすることは別に構わないんですよ。
しかしそれをコンビニやスーパーなどの従業員にそれを尋ねることは、(本来戦うべき相手ではない)非戦闘員を戦いに巻き込むことに等しいのではないか、なんて。
それとも、環境負荷の高い商品を売っている以上、何の権限も持たないであろう従業員である彼ら彼女らも責任の一端があると考えるべきなのだろうか?



車椅子で不自由な生活をする彼女が駅員にここまでした理由と、逆に多くの人たちがそれに反発を覚えた理由。そのギャップにあるのはこうした認識の違いではないかと。
駅員あるいはコンビニやスーパーの店員たちは、そうした正義の為の戦いに際して「戦うべき相手」というポジションに入るのか?


この戦闘員・非戦闘員という定義については、みなさんそれぞれのポジションから色々とご意見ご感想あるでしょう。
末端に文句を言っても何も解決しないという身も蓋もないマジレスがある一方で、何もせずに見ているだけで共犯者である、という「沈黙な共犯!」人たちだっているわけだし。
その理屈を持ち出せば、駅員や従業員はまごうことなき『戦闘員』である。攻撃目標にされてもまったく文句は言えない。まぁこの理屈を持ち出すとその極北にはザ・テロリストに論理にたどり着いてしまうわけですけども。


社会正義を目指すという目的の是非ではなく、そこで採られる手段の正しさについて。
その戦闘員として見られる範囲について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?