「レジティマシーが無い人が、レジティマシーがある人を嗤う」という現代寓話。
高市早苗・自民党総裁、第104代首相に選出 憲政史上初の女性宰相 - BBCニュース
ということで紆余曲折ありながらも総裁選だけでなく首相指名選挙でも票をかき集めどうにかこうにか高市内閣爆誕したそうで。
個人的にこの苦労の多そうな数合わせ騒動を眺めていて思い出したのは、先日あった大変味わいのあるマスメディア様の面白愉快でひたすら軽薄な発言なんですよね。
「支持率下げてやる」カメラマンを厳重注意、時事通信社 他社の写真記者との雑談中に発言 - 産経ニュース
つまり、だからこそ、『ペンは剣よりも強し』はもう二重の意味で現代民主主義社会では通用しなくなっているんだなぁ、なんて。
発表によると、男性カメラマンは他社のカメラマンらと高市氏の取材対応を待っていた際、雑談で「支持率下げてやる」「支持率が下がるような写真しか出さねえぞ」と発言した。
SNSでは、ほかにも「裏金と靖国なんかでしょ」「靖国は譲れません」「イヤホン付けて麻生さんから指示聞いたりして」といった音声が拡散された。これらの発言について、時事通信社は厳重注意したカメラマンの発言ではないとしている
「支持率下げてやる」カメラマンを厳重注意、時事通信社 他社の写真記者との雑談中に発言 - 産経ニュース
この発言の是非はともかくとして、しかし「言った側」と「言われた側」の正当性という面で見るとすごく興味深いお話だと思うんですよね。
ここで軽口の対象となった民主主義社会における政治家というのは選挙という国民による直接的な審判を経てきているわけですよ。今回の高市さんの場合はそれだけでなく更に、自民党総裁選や首相指名選挙と幾度となくその審判をくぐり抜けてきた。
――ぢゃあ、上記のようなマスメディア()の人たちは一体どのような国民からの『信託』を経て来たの?
選挙を経て正当性を得てきた人たちを、何の正当性も――いやマスメディア所属という立派な()肩書だけはある――ない人たちが嗤っている。元々信頼されている人たちならセーフだとスルーできても、まぁ昨今の色々を見ればお察しで、そういう人たちがこんなことをやっていればそりゃ嫌われるのも当然だよね。
政治家もマスコミも当たり前に嘘をつく。では、まだマシな存在はどっちだろうか? という究極の二択。
政治権力であれば、ポピュリズム的だと批判されることはあっても、報道機関からの批判に対して「選挙で選ばれたのは我々だ」と究極的に反論できるんですよ。
ところが報道機関が市民から「お前たちは誰の代表なのか」という聞かれた場合、明確な答えを持ちえない。政治家を自称することは不可能でも、ジャーナリストを自称することは誰にでもできるんですよ。だからこそ彼ら彼女らにとって国民からの信頼を失うことは、皮肉なことに政治家以上に避けなければならなかった。
「公共の利益のため」なんて曖昧で抽象的な大義を掲げることはできても、それは視聴者から信頼されていることと必ずしもイコールとなるわけではない。
ましてや――まさに報道機関がしばしば政治家の『言葉』だけでは何も信頼に値しないと評しているように――その大儀だけで視聴者から信頼されるわけでは絶対にない。
現代マスメディアをめぐる中心議論ってこういうことですよね。マスコミの信頼性の低下だけで済んでいればまだ軽傷だったそれが、ついには「正当性への疑義」という致命的な死に至る病にまで侵襲してしまっている。ここまで来るとマスコミが信頼されているとか信頼されていないの次元じゃないんですよ。
これまで「ペンは剣よりも強し」と称してきた報道機関は、単純に経営的苦境による取材力や権力監視の弱体化だけでなく、同じ信頼性低下という状況に陥りながらも「選挙を経た政治家」というある種究極の正当性を有する存在に道徳的地位まで敗北してしまいつつある。
ペンは剣よりも(正当性が)弱し。
正当性を失った人たちの末路。
政治家であれば幾ら信頼を失っても、最終的には選挙を経ることで少なくとも最低限の正当性を確保できたのにね。
では元々非選出性でその権力に正当性のなかったマスメディアの人たちは、信頼を失い正当性を問われたら一体どう応えるつもりなんでしょうね?
みなさんはいかがお考えでしょうか?