何故学校の規則はあんな無意味に厳しいと感じるのか?

毎回適当な事を書く何故なにシリーズ。第何回かはわかりません。内容も保証できません。昨日の日記とはアリストテレスネタ繋がりです。


まぁよくある話ではありますよね。学生当時には多くの人が一度や二度思った事のあるであろう、服装規定とか頭髪規定とか意味のわからない禁止行為とか。で、それに対する答えが、社会教育の為だとか語られる。
しかしそうしたルールを遵守させるという道徳性は、短期的な利益よりも長期的な利益を、あるいは個人のそれよりも集団のそれを優先させるような性格のものである為に、タイトルのように学生たちの多くはそれをうっとおしく思うわけです。


さて置き、昔アリストテレスさんが『倫理学』の中でいい事言っていたんですよね。*1

道徳的な価値観は知的な価値観とは異なり、習慣と反復によって会得されるため、当初は不快な行為もいずれは快適なものに変わったり、少なくとも不快さが減少したりする。

つまり、そうした学校規則が存在しているのは単純に「ルールを守れば得があるよ」的なことを単純に教えているわけではなく、まだ未成熟な人格形成期な時期のうちに、道徳的な価値観を「習慣と反復」によって刷り込もうとしているんです。
だから、まだそうした道徳的価値観が刷り込まれていない子供たちは反発するし、しかし既にその過程を過ぎた大人たちは最早それに疑問に思う事はない。故に「大人はわかってくれない」なんて語られると。


その意味で、中二病をこじらせた人や、あるいは某尾崎さんに感化された人たちが言う「学校は子供を洗脳している」的な発想はかなりの部分まで、実は正しい。「ルールを守ることで利益を得られる」と教えるのではなくて、「ルールを守る事」こそが正しい行為でありより好ましい振る舞いであるということを、個人に習慣化させようとしている。正しいから信じるのではなく、信じるから正しいと。まぁそれは確かに洗脳に見えなくもない。


上記引用先で語られているように、私たち人間にとっての道徳性とはまさに、合理的だとか正しいかとは別にした、習慣と反復によって形成された物であるから。

*1:本文引用はフランシス・フクヤマ『大崩壊の時代』より