腐敗と公正さをわかつもの

FIFAさんちの家庭の事情のお話。


http://mainichi.jp/enta/sports/soccer/japan/news/20101205k0000m050053000c.html
http://mainichi.jp/enta/sports/soccer/japan/news/20101206k0000m050046000c.html
開催地も決まったそうで。大本命といわれていたイギリスは、「負けるべくして負けた」なんて言われている日本なんかとは確かにガッカリ感が違いますよね。「FIFAは信用できない」なんて恨み節もわからなくはない。なのに相も変わらずFIFA収賄問題に切り込む姿はなんというからしいと言えばものすごいらしい話ではあるんですけど。
しかしこの問題も、ぶっちゃけてしまえば、その多くが前回の10月の報道*1にあったようにナイジェリアやタヒチオセアニア)のような所謂「南側」の国の問題でもあるわけで。少し前にあった別件のBBCの報道*2でもやっぱりあんまり南米のあまり先進的でお金持ちではない国の名前が挙がってしまう。多分それは本質的な人間性の問題というよりも単純に「どれだけ買収されやすいか」ということでしかないと。単に彼らはその基準がたまたま低かっただけに過ぎない。
そんな色々批判されているFIFAの投票システムではありますけど、まぁ一国一票という原則は確かに素晴らしき欧米ルールではあるんだけども、しかしそれが国際標準かと言えばそうでもないわけで。


といってもこうした賄賂による一票の買収も、その公正な本来の機能も、結局の所わずかな紙一重の差でしかないということは確かに言えるんですよね。
理事が「私人としての自らの利益の為に」票を投じるのか、それとも「公人としての自らの利益の為に」票を投じるのか。前者は非難されるけども、しかし後者はむしろ推奨される。
究極的には自分の持つ一票を、どちらも広い意味での、買収をさせている。だからきっとこの件で収賄がバレた人も何でそこまで批判されるか理解していないんじゃないかと思うんです。その意味では私人と公人の区別をつけなくても済むような社会、あるいはその基準が違う社会の人びとにとっては、そうした投票の買収行為は極当たり前のことなんでしょう。
良いとか悪いとかそういうレベルの問題でさえない。よく「○○の立場に相応しい言動・振る舞いではない」なんて批判されてしまうように、私たち日本のような国では一般に公人としての立場と私人のそれを明確に分けることに意味を見出しているけども、しかしそうでない人びとも存在するから。
もっと言えば、自らの利益誘導すべきポジションをどこに依拠するのかという問題であると。



それってつまり、例えばFIFAの倫理委員会の人びとがどんなにがんばってもそれで解決する問題ではないということでもあるんですよね。それはどこまでいっても、社会性による投票と買収に関する考え方の違いでしかないから。もしくは最終的な帰属意識の問題でしかないから。「私たちは一体どこからが公人で、どこまでが私人なのですか?」という問い。
そこに共通の了解事項があれば良かったんだけどそんなものは無いから。それを強権的に押し付けることができれば良かったんだけど、しかし最早そんなあからさまな傲慢な振る舞いはもうできないから。


そんな差異がありすぎる人びとが同じルール内に居る悲劇なんじゃないのかと思うわけですが、皆様はいかがお考えでしょうか?