何故ゲームに冷めてしまったのか?

何があっても粛々と日常を送るのだ、ということでいつもの日記。かつての愛故に、もう愛せなくなってしまった私たちのお話。


大人になってRPGができなくなった - phaの日記

もう20年前になるけれど初代ゲームボーイが発売されたばかりの小学生の頃、せっかくゲームボーイを買ったのに「テトリス」くらいしかやらない大人を横目で見ながら「魔界塔士Sa・Ga」とかをプレイして「大人は面白いゲームがあるのに分かってないな!」って笑っていたのだけど、僕もそんなパズルゲームしかできない大人になってしまったようだ。一体自分の中の何が変わってしまったんだろう。

大人になってRPGができなくなった - phaの日記

すごいよく解るお話です。僕は『タクティクスオウガ』とか『エストポリス伝記Ⅱ』とか『エナジーブレイカー』とか、あの頃がピークです。1995年前後。ほんともう、あの時代に人格形成されたと言ってもいい位に。
さて置き、これって私たちのそうした記憶・経験があるからこそ、そうした地平に辿り着いてしまうんだと思います。つまるところ、私たちのようなかつて何かのゲームを本気で愛していたからこそ、それが無数に存在している現実と折り合わなければならなくなってしまった。


これってまさに人類の歴史そのままですよね。それはつまり、私たち現代人が近代以降獲得し、そして支配されている最後の教義『相対主義』そのままに。
かつて私たちが確信していた絶対の教義、それは例えば人種や民族、キリスト教イスラム教などの世界宗教、国家、血統などなど。私たちはそうしたものを唯一絶対のものと信じていた時代を、しかし今になって振り返って見るとまぁなんというか苦笑いするしかない。あの頃はある意味盲目だったからこそ、本気でそれを信じることができたし愛することができた。それこそが唯一絶対であると。でも現代世界に生きる私たちはそれほど無邪気ではいられない。
人間は、視界が広がれば広がるほど、知識と経験が増えれば増えるほど、いつしか相対主義者になっていくんですよね。かつて絶対で唯一無二だと思っていたものは、よく見たら(ごくありふれた、とまでは言わなくても)結構そこそこあるものだった、と気付いてしまう。


私たちはゲームに飽きたわけでも、あるいは最近のゲームが昔に較べてつまらなくなったわけでもない。ただ知ってしまっただけ。その面白さ・確信・熱狂が唯一無二のものではないと。かつて愛していたからこそ、もう昔のように愛せない。だからこそ咄嗟に心のブレーキが掛かってしまう。ゲームは無数にある内の楽しみの一つであり、そして更には「そのゲームそのもの」の範疇においてさえもそれは唯一絶対のものではないことを、最早知ってしまったから。
知恵と経験を持つ私たちはそうして実際にそれを遊んでみる前から察してしまう、「これは面白いゲームなんだろうけど、でもそれだけである(絶対のものではない)」と。
こんな風にして私たちはかつての熱狂を持てなくなってしまうと思うんです。それは老成であり、達観であり、諦観であり、相対主義である。僕の個人的な好きな言葉で言えば、「角度が見えてしまった」から。だからもう時間の掛かるRPGはやっていられない。


有名なニーチェさんはそんな現代人を『ツァラトゥストラはかく語れり*1』でこんな風に評しています。

それゆえに諸君は語る。「われわれはまったく現実的であり、信仰も迷信も持たない」と。かくして諸君は胸を張る――ところが、ああ、そこは空っぽなのだ。

こうして今でも熱狂を忘れない一部の人たちを見て、私たちは相対主義という知識や経験と引き換えにした、自分自身の「空っぽさ」を意識せずにはいられないんでしょう。冷めてしまった私たち。