善意「こそ」が人を殺す

twitterが人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」と誰かそろそろしたり顔で語ってくれると思います。


[NS] 災害時、あなたの善意で、人が死ぬ

インパクトのあるタイトルをつけたが、これは大げさではない。
災害時の誤報やデマは必要なリソースを奪われ、助かるはずだった人が助からなくなるおそれがある。

[NS] 災害時、あなたの善意で、人が死ぬ

ええ、まさに仰るとおりでございます。おわり。でもそれじゃ寂しいので適当なことを書きます。


さて置き、まぁ大抵人間の歴史が証明しているのはそういうことでもあるんですよね。つまるところ、大抵の場合本人が(自分勝手な論理によって)良かれと思ってやったこと、こそが人を殺す。
まとめよう、あつまろう - Togetter
それは一昨日の日記でも触れたこのような民族差別やあるいは原発反対運動家の皆さまにしたってそれは同じなんです。彼らの根本にあるのはその排外主義やあるいは原理的な環境保護運動なのではなくてむしろ、善意、でしかない。彼らは本当に、特定の外国人が犯罪を犯すと危惧する故にその注意を(バカみたいに扇動的な)呼びかけているし、そして原発は何としても地球上から抹殺しなければいけない程に危険な物だと確信しているからこそ(バカみたいに扇動的な)注意喚起を行っている。
そんな彼らの善意は、まぁぶっちゃけてしまえば、無駄であるどころかマイナスの効果しかない。でもそんなことじゃ彼らは挫けたりしないんですよね。だって彼らは本当に「不正と戦っている」と信じているから。


こうした「悪と戦っている」という確信こそが彼らをつき動かす。そんな善意こそが彼らにそうした行動に走らせる。
もちろんそれは最近チュニジアで始まったような民主化運動にまさに火をつけた焼身自殺した若者であり、天安門の時に戦車の前に飛び出した若者でもあり、弾圧者の銃口の前に自分の身を投げ出す若者である。彼らは同じ衝動によって動いてる。「不正義と戦っている」という思いによって、自らの命を投げ出すほどの衝動を獲得する。
まさに『善意』とはそんな人間の最も激しい衝動であって、だからこそ彼らはあそこまで自己犠牲を省みずに戦うことができた。彼らのような人びとの善意が、革命などを通して人間の諸権利を獲得してきたとは確かに正しい。


でも、だからといって当然それは結果的に何を引き起こすかについて保証する物では絶対にない。
例えば人間の歴史に残るような愚行や蛮行、かつてレーニンだってスターリンだって、かつての中国共産党文化大革命だって、あるいはクメール・ルージュだって、更に踏み込んでしまえばアメリカの原爆投下だって、ヒトラー第三帝国だって、ある意味で彼ら自身の善意から生まれた行為ではあるんですよね。
彼らは社会階級を無くそうと理想に燃えていたし、都市と農村の区別を無くそうとしていたし、知的労働と肉体労働の区別を無くそうとしていたし、誰にでも同じ報酬を与えることによって平等が達成されると信じていたし、国家と若いアメリカ兵の命を守る為だと信じていたし、ドイツ民族が誇りと安寧のもとに暮らせる社会を創ろうとしていた。
今になって振り返ってみて、「なぜ彼らはあんなに壮大にバカなことをしたのだろうか?」
と考えてみれば、それは彼らがまさに善意で燃えていたからなんですよね。彼は(その自分の信じる)正義の為と信じたからこそあそこまで突っ走った。そうした激しい情熱があるからこそ、一定の支持の下に逆の意味での大きな結果を残すことができた。それは単純な悪意などでは到底実現できないような、まさに善意故に実現されてしまった壮大な負の歴史。


まぁつまり人間の歴史って良くも悪くもそうした善意、激しい衝動によって作られたものではあるんですよね。それは当然人を助けるし、しかし同じ位人を殺してきたと。